おんなが倒れている。 とあるアパートの一室である。床には帰宅するなり脱ぎ捨てた衣服と空のペットボトル、ビール缶、そして数枚のDVDが転がっている。六畳間に散らかったそれが、おんなのすべてであった。 おんなが起き上がる気配は、ない。 意識は失わ…

仕事を終えたおんなを待っているもの、それは一杯の酒と、韓流である。 「どっこいしょ」 机のうえに並んだ酒瓶とざくろ酢のボトルを押しのけて、ノートPCを立ち上げる。DVDドライブに挿入するものはもちろん決まっている。『新しき世界』だ。 「2月1日の…

「あんた、新世界…見たな?」 ささやかなランチタイムを終え、映画館に足を踏み入れるなり、飛んできた言葉が、それだ。 小さな映画館だ。ロビーも広くはない。声の方向に首をめぐらすと、壁際のソファに寝そべった男がこちらを見ていた。伸びざらした前髪の…

灰色にくすんだ空に雪が舞い、凍てついた空気が肌を刺す、そんな日であってもひとは映画館に足を運ぶ。 開店前から入り口に並ぶ客の数は、二十を超す。 行列にくわわりながら、おんなはぼうと考えた。 (そういえば3人で行ったら一人1000円になるんだっ…

拝啓 林超賢 様 はじめまして、こんにちは。 観ました、『激戰 UNBEATABLE』。 観終えたとき、気がついたら二回目をすでに観始めていました。 二回目を終えたときには、三回目を。 そして今、四回目の『激戰』が私の六畳間に流れています。 激戰 2013年/…

あたらしい一年の朝は、祈りの朝だ。 かなしみがすこしでも減って、よろこびがすこしでも多くおとずれますように。 青い空からきらきらと宝石がこぼれるように降り注ぐ太陽のひかりにぼくは願った。 いつもはカーテンまで閉めきった薄暗いばあちゃんの部屋も…

ゆくとし、くるとし、呉彦祖 ハァイ、みんなグッイブニーン! 今年ももうすぐ終わりだねー。みんな年の瀬は実家に戻ったりするのかな? それとも家から一歩も出ずにひとりでまったりかな? 浴びるほど酒を飲んで、浴びるほどDVDを観てってカンジ? それもい…

凍てついた空気のなかに、時折やわらくとけた陽のぬくもりを感じる冬の終わりのことだった。いつものように背中をまるめてトールケースをなでながらばあちゃんは言った。「ダニエル・ウーはなんのために上り詰めると思う?」 答える代わりにぼくはばあちゃん…

ダニエル・ウーを知って、ぼくはほんのすこしだけ大人になった気がする。 大人は「大人になった」なんて、いちいち思ったりしないだろうから「大人になった」なんて言ってるぼくは、やっぱりまだまだこどもなんだろうけど、ダニエル・ウーが演じるキャラクタ…

甄子丹教の話をしよう。 略して丹教ともいう。ぼくが知ってる丹教の人間はひとりだけ。ばあちゃんではない。ばあちゃんは甄子丹を語らない。理由は「彼を語る言葉を持たないから」 甄子丹。イェン・チータン。ドニー・イェンとも呼ばれる、その俳優はばあち…

むかしむかしのはなしだ。 ばあちゃんとはぐれて迷子になっていたぼくを助けてくれたひとがいた。知らない男のひとだった。顔は思い出せない。けれど、握っていた手の感触は覚えている。ごつごつとした、おおきな手だった。 何度も来たことのあるデパートな…

一晩経ってもまだ、まぶたの奥にサムの姿が残っている。 父親の涙を見た瞬間、サムは世界の終わりを感じたのだろう。サムの心からは血が噴き出していた。ぼくの目から見たらサムの行為は裏切りだ。だけど彼にとって、彼の決意は「裏切りは無かった」と、彼の…

ばあちゃんは言った。「この世には二種類のダニエル・ウーがいるんだよ」「良いダニエル・ウーと悪いダニエル・ウー?」 ぼくの答えに、ばあちゃんは「ち、ち」と舌を鳴らし、首を振った。「死ぬダニエル・ウーと死なないダニエル・ウーさ」 デッキの上に重ねてあ…

「ねえ、ぼくちゃん。ぼくちゃんは、不憫な子が好きなのかい」 ぼくがこくりと頷くと、ばあちゃんは「そうかい、そうかい」と呟きながら、なにかを考え込むような素振りをみせた。「なら、ぼくちゃんは、ダニエル・ウーを知らないといけないねえ」 首を傾げる…