「あんた、新世界…見たな?」


 ささやかなランチタイムを終え、映画館に足を踏み入れるなり、飛んできた言葉が、それだ。
 小さな映画館だ。ロビーも広くはない。声の方向に首をめぐらすと、壁際のソファに寝そべった男がこちらを見ていた。伸びざらした前髪の奥で、こちらの視線を受け止めると無精髭を散らした口元を笑みのかたちに歪めた。
「わかるんだよ、俺には。新世界をやっちまったやつの顔はよう。どいつもこいつも、なにかを掘り起こされちまった、そんなツラをしてやがる。あんたは、そうだな……」
 男は顎を撫でた。探るような視線が頭から爪先まで、全身を、撫でた。
「さしずめ、これから3回目ってとこだな」
 確信に満ちた顔だ。男の言葉に、思わず息をのんだ。財布にはすでに切り取られた半券と、これからモギリの手にわたる当日券がある。朝いちばん、開店と同時に買ったものだ。
「あんた、いつから見てたんだ」
 午前十時。店員とやりとりしていたとき、男はいなかった。ほかの客といえばリバイバル上映の『ゴッドファーザー』を目当てにやって来た老婆がひとりいたくらいだ。
「言ったろう、顔見りゃわかるってよう。俺は忠告してるんだぜ」
 漂いはじめる剣呑な空気も、まるで意に介した様子はない。芝居がかった仕草で肩をすくめ、こちらの問いを軽く流す。
「あんた、新世界をはじめて見たとき、どう思った」
 答える必要はない。そう、沈黙をもって返すつもりだったが、男の瞳に宿った真剣な色に、気づけば口を開いていた。
やおい、だ」
 すっげえ、やおいだった。やおいとしか言い表すことのできない、やおいがみっしりと詰まっていた。
「そうだ、やおいだ。俺も同じよ。チョン・チョン見たろ? あのもじゃもじゃしたオールバックの男だ。あいつ、弟分のイ・ジャソンしか見てやがらねえ。サングラスをかけようがはずそうが、そいつは変わらねえ。それもちょっとやそっとじゃない。ずっとだ。あいつずっとジャソンを見つめて、ジャソンのことしか考えちゃいなかった。ジャソンもそうだ。チョン・チョンの前でだけ、張り詰めたものがほぐれたような、ふわっとした隙のある笑みを浮かべやがるのよ。それでいて、目的地を見失った船のように、男という灯台のあいだをさまよってやがる。情という灯りがぽっとともるとふらふらと引き寄せられていく。ジャソン、あいつもたいがい男しか見ちゃいねえ。俺ははじめて観たとき、思わず天を仰いだね、なんてこった!ってな」
 一息にまくしたてるように言葉をはきだす男に、頷かずにはいられなかった。
「2回目観たときは、さらにやおいだった……」
 登場人物全員、デキてんじゃねえか。そう思わずにはいられない、やおいの園だった。あいつら全員、肉体関係あるんじゃねえのーーーー! 喉元までこみあげた叫びをクリスタルカイザーで強引に飲みくだした記憶がよみがえる。
「まったく、その通りだ。1回目はチョン・チョンとジャソンの完全にデキあがってるとしかいえねえ兄弟の物語に動揺して、あいつらふたりを見守るのがせいぜいだった。ところがどうだ、2回目は、ふたりに対する衝撃がいくぶんやわらいだぶん、ほかに目がいっちまうじゃねえか。ジュングとヒョンチル、過去になにかあったの? ははあん、暴れん坊の不良小僧とそれを補導する警官的な? そりゃあ夏の終わりをキッスではじめる、カルピス味の思い出のひとつやふたつあったんじゃねえの、とかな。あとチョン・チョンともあやしいだろ、ジュング。小生意気な年下のぼうやのよくまわる口を塞ぐっつったらオメエ、そりゃあ唇じゃねえの!?ってな、言いたいだろ?」
「会長がチョン・チョンをかわいがってた、という情報ひとつだけでも千夜一夜物語になるな」
「ああ、男と男しかいねえ、やおいの千夜よ。やおいってのは、やおろずの「八百万」に、つなぐの「維」って書くっつうじゃねえか。数え切れねえ男たちをつなぐ、それが「やおい」ってもんだ。新世界にはよう、チョン・チョンやジュングのうしろにずらりならんだ舎弟どもを合わせると、まさに数え切れねえくらいに男が出てくんだ。そいつらが全員デキあがってたって、ちっともおかしくはねえ。おい、ジャソンの部下によ、いたろ? なあんか、荒事に向かなそうな顔したちっこいのがよ。そいつがよ、チョン・チョンとジャソンがじゃれてんの見て、笑うんだわ。いかにも思わずこぼれでたっつう感じでよ。俺は思ったね、あいつ、チョン・チョンとジャソンのガキなんじゃあねのって」
 それは、年齢的に無理があるだろ。そう思い、そう顔に出した。こちらの無言のツッコミに男は吠えた。
「ねえよ! やおいに無理なんかなにひとつねえ! この世のありとあらゆる無茶を、男と男が交わす微笑みひとつですべて通す、それがやおいってやつだろ!? やおいという道理が、やおいにはあるんだよ!!」
 やおいという道理、その通りだ。
「お前の言いたいことはよくわかる。1回目の感想は、やおい。2回目も、やおい。なら3回目ももっとやおい、それだけの話だ。お前は、いったいなにを伝えようとしてるんだ」
 こちらの問いに、男は喉の奥で、なにかを押し殺したように呻き、それからゆっくりとかぶりを振った。
「俺は、3回目で、このザマよ」
 自嘲気味に嗤って、男はくたびれたコートから取り出したボトルウイスキーをあおった。
「今じゃあ、酒を飲んでも自分がなにに酔ってんだかわかりゃしねえ。酒と新世界の区別もつかなくなってんのよ」
 ウイスキーを喉に流し込む男に、さきほどまでの威勢のよさは欠片ほどもない。3回目の新世界が、いったいこの男になにをもたらしたのだろう。
「あんた、どうあったって3回目、観るんだろう。わかるよ、あんたはやおいを求めてる。そして、新世界というやおいを知っちまった。そりゃあ、観るしかねえよな」
 俺も無駄なことをしたもんだ。男はそっと呟いて、顔をふせた。
「だけどよう、やっぱりひとつだけ忠告させてくれ」
 男の言葉に、頷きで返す。男はそれを見て、ふっと笑った。


「新世界は、3回目で色が変わるんだ」




 それから数時間後、マッコリボトルを握り締め、夜の町をさまよっていた。
 白く濁ったマッコリのように、視界も、意識も、白くもやがかっていた。


 遠くで男の声がした。


 「俺にはわかるよ、あんたはもうマッコリとドッキリの区別もついちゃいねえ」


 なに言ってんだコイツ。男に言葉を返そうと口を開いた。なんと返そうとしたのかは、わからない。
 薄くひらいた唇の間から、吐息のようにこぼれでたのは「スーツ」ただそれだけだった。



 


スーツの世界


 薄々と、自覚はしていた。
 スーツの男を見ると、興奮する。
 正確には、スーツの男の集団を見ると、興奮する。
 

 現実のそれはどうでもいい。私は、映画のなかにいるスーツの男が好きなのだ。
 スーツとは、男の心の貞操帯である。オトコノコのいちばん大切なものをそっと覆い、護っているもの、それが私の考えるスーツ。そしてその貞操帯の鍵をかけるものは、男本人の意思ではなく、男がさらにうえに仰ぐものの意思である。
 なにものかに身を任せ、ただなにものかの一部になった男たち。それがスーツ男の集団。


 オトコノコのいちばん大切なものってなんじゃい? そんなもんは知らん。



ジュング・ボーイズ


 男の背後にスーツの男が並ぶ。このとき、スーツ男は、男を飾るアクセサリとなる。



チョン・チョンの男たち


 男の手足となり、男の心を満たすスーツ男たち。正直、ハーレム、だよね!



スーツ大乱闘


 スーツ男たちが並ぶ空間。そこにはぴんと張り詰めた、静かな緊張感が満ちている。
 そこに、乱闘。
 かっちり着込んだ、しわひとつないスーツのしたで、躍動する肉体。そのアンバランスさは、噴き出す感情をぶつけあう命を賭けたやりとりのなかで、膨れ上がり今にも張り裂けんばかりの動の緊張感を生み出す。
 このとき、傷ついた手に巻きつけられるものはネクタイである。清潔な白いシャツは埃にまみれ、赤く染まる。
 スーツ男たちが生み出す調和の美が崩れる瞬間、そこになんともいえぬカタルシスを得る。それは、スーツ男の集団に興奮する人間なら失禁しかねぬほどの勢いだ。


 上映前にトイレに行っておいてよかったと、心から思う瞬間である。



おとこ女王


 すらりと体格まで整った、見目いいスーツ男たち。
 それを引き連れるのは、わずかに強張った、冷たい顔をした、しなやかな体つきの男。
 このとき、イ・ジャソン。おとこ女王の風格である。というかコイツ、迷子の子猫ちゃんのような顔して、若い男を侍らしてる姿が、すごく、似合う。すごく、いい。
 北大門組派閥のNo2イ・ジャソン。別名、北大門の極道の妻である。煙草をくるくると弄ぶ手つきが尋常でなく美しいこの男に、スーツ男たちの尖った顎を撫でてもらいたい、そう心の底から願わずにいられない。


 やおい女は心から、おとこ女王に頭をたれる。



傘持たせて侍らす姿もGOODだね。




 マッコリはいつの間にか空である。マッコリとともに飲み込んできた言葉をそっと吐き出す。
「3回目で、イ・ジャソンは私の中で女王様になったよ------」
 やおろずの男たちをつなぐ手綱を握る存在、それがおとこ女王。


 やおいを求めた先に、やおいに君臨する男が、いた------


NEVER END...