灰色にくすんだ空に雪が舞い、凍てついた空気が肌を刺す、そんな日であってもひとは映画館に足を運ぶ。
 開店前から入り口に並ぶ客の数は、二十を超す。
 行列にくわわりながら、おんなはぼうと考えた。
(そういえば3人で行ったら一人1000円になるんだっけ)
 主演の3人にちなんだ割引キャンペーンである。
 だが、おんながひとを連れ立って映画館に足を運ぶことはない。ひとりで観て、ひとりで反芻する。これが、おんなの映画生活であった。
(そういえば愛と勇気が友達だと言っていたヒーローもいたな)
 頭部に餡子の詰まったせいぶつの姿を思い浮かべて、おんなはかすかに自嘲的な笑みを浮かべた。愛と勇気が友達だと、人前で、ためらうことなく口にすることができたなら、おんなは1000円で映画を観れたかもしれない。だが、おんなには愛はなかった。勇気も、なかった。
「『新しき世界』1枚」
「1800円です」
(そうだ、私には1800円が相応しい)
 おんなの差し出した二枚の千円札を受け取りながら、おんなにしか聞こえぬ声で、店員は言った。
「お客さんには、あるじゃあないですか」
 心根を見透かすのような店員の物言いに、おんなは顔をあげた。他人に心を暴かれた羞恥がおんなから言葉を奪っていた。黙って睨みつけることしかできぬ、無力なおんな。だがしかし、店員は動じることなく言葉を続けた。
「なあに、2時間後にはわかりますよ」
 おんなの手のひらに、百円玉が、おちた。


 さて、およそ2時間後、おんなは走り出していた。
 走り出さずにはいられなかった。そうでなければ、おんなは叫びだしていたことであろう。
「チョン・チョン×イ・ジャソンでお願いしまあす!」と。


 なるほど、おんなに愛はない。勇気もない。
 

 だが、おんなには、やおいが、あった。


 

新しき世界

原題:신세계 新世界 2013年/韓国映画


 売店で買ったパンフレットとTシャツを抱え、気づけばおんなはあてもなく町をさまよっていた。
 おんなの脳裏に浮かぶものは、肉体を、魂を、無残に磨り潰された人間たちの叫び、そしてやおい。とにかくやおい。それでもってやおい。超、やおい……。おんなはおのれの名すら忘れかけるほど一心に、自分が目にしたやおいのことを考え続けた。


 
イ・ジャソン(イ・ジョンジェ


 華僑という出自を買われ、潜入捜査官として犯罪組織ゴールド・ムーンに送り込まれる。彼を支える警察官としての規範も、八年という月日のなかで徐々に揺らぎ始める。彼が得たものは妻であり、兄であった。とりわけ、兄が注ぐ深い情がジャソンを苦しめていた。偽りの世界が彼のなかで確実に根を張りはじめていたのだ。
 八年間。祈るような気持ちで、ジャソンは任務の終わりを待ち続けていた。ゴールド・ムーン会長の死によって、彼はとうとう解放されるのだと思った。だが、事態はジャソンをさらなる地獄にいざなっていく。目の前で流れる血が果たして自分にとってどういう存在であった人間のものなのか、それすらもはやわからない。傷ついたこころからふきだす血がジャソンをべつのいきもののように作り変えていく。
 組織の意思に従い、他人を欺き、自分を欺き続けてきた男が、やがてはじめて自らの意思によって生きることを選んだとき、新しい世界があらわれる。



カン・ヒョンチョル(チェ・ミンシク


 ソウル地方警察庁捜査企画課課長。ジャソンを捜査官として送り出す。
 ゴールド・ムーンを内側から磨り潰し、作り変える「新世界プロジェクト」を発案。目的のためならいかなる手段も厭わない冷酷な顔のしたにあるものは疲れきった、老いた人間のそれだった。廃屋のなか、ひとり濁った水に釣り糸を垂らしながらジャソンを待つ。
 ヒョンチルの教え子は、彼の与えた任務によって無残な死を遂げた。それでもヒョンチルは、部下に対して地獄を進めと命じる。終わりのみえない孤独な人生を、彼はそれでも終わらせることはできなかった。ジャソンが職務に対する忠誠心と情の狭間で悲痛な叫びをあげ続けてきたように、ヒョンチルもまた組織の規範と人間の情の間に渦巻く葛藤を押し殺してきたのかもしれない。疲弊し、澱んだ眼差しのなかに、彼が眺め、身を置く地獄があった。


 

チョン・チョン(ファン・ジョンミル)


 ゴールド・ムーン専務理事にして組織の実質No2。歯向かうものに対しては苛烈な暴力性を見せつける一方で、心を許した相手には深い情を寄せ、自分とおなじ華僑という出自を持つジャソンには兄弟として接する。
 隣で笑っている人間が次の瞬間には銃を向け、襲い掛かってくる。チョン・チョンが駆け抜けてきたのは、そういう世界であり、そのなかを、ともに生き抜いてきたのはジャソンだった。重ねられた年月が、同胞に対して芽生えた情をより強固なものに変えていく。それはいつの間にか別ちがたく彼のなかに溶け込んでいた。
 からかい、ふざけて笑いながらも、兄は注意深く弟の様子を見守っていた。韓国社会に生きる中国人として、チョン・チョンもまた、アイデンティティの揺らぎを味わったのかもしれない。だからこそ、ジャソンを引き裂こうとするものを感じ取り、理解し得たのだろう。
 目の前の人間がひととしての輪郭を徐々にうしなっていくジャソンのなかで、唯一ともいえる「人間」が兄であったように、チョン・チョンにとっても自分とおなじ苦しみを抱える弟こそが「人間」だったのだ。

 


 目で会話する男たち



 すごく目で会話する男たち


 真実を見失った世界で、おんなもまた、どこまでが映画で観た光景かどこまでがおのれの妄想か、完全に区別を失っていた。パンフレットを広げてみても、妄想のように思えてくる。圧倒的なやおいを前に、おんなの自我は崩壊しつつあった。
 地面の感触すらわからぬ、ふわふわと宙を歩く足取りでおんなは歩き続ける。
 空腹で飛びかける意識を黒糖の甘味によって繋ぎ止める生活を送るおんなに明日はない。だが、やおいがあった。



 生き残るための3つのやおい


1.チョン・チョンがやばい


 兄貴は全面的にやばいです。あの手のはやい男が、兄弟に対してはおふざけでも決して手をあげません。傷つけまいという意識が徹底してて、やばいとしか言いようがありません。
 兄貴が繰り出してくるガン泣かせ小道具のひとつが腕時計です。これからの私は悪趣味な腕時計を見るたびに号泣する人生を送ることでしょう。置き場所にいっそう兄貴の思いを感じ取って叫びたくなります。どんだけ大切なんだよ。
 ふたつめがエレベーターです。エレベーターといえば古今東西、男たちの魂を乗せて運ぶゴンドラとしての役割も備わってます。これからの私はエレベーターに複数人で乗り合わせるたびに兄貴の姿を幻視して錯乱する人生を送ることでしょう。私の魂もエレベーターに乗って運ばれていくのです。なんか、3階とかに…(※映画館フロア)


2.イ・ジャソンがやばい


 やばいです。いろいろとやばいです。華奢な体形がやばい、時折みせるよるべない表情がやばい、兄貴と絡むときの緊張感がわずかにゆるむ感じがまじでやばいとか海に向かって叫ばずにはいられないやばさがあります。やばい。
 役者には瞬間最大視聴率的に美しさがもっとも高まる瞬間というのがあると思うのですが、ジャソンの瞬間最大美貌率は個人的に時計をはめた瞬間です。チョン・チョンによって美しさが天井知らずになる男、それがイ・ジャソン。兄貴はほんとうにやばいですね。そんな兄貴によって輝くジャソンもやばい。つまりそういうことです。


3.とにかくやばい


 とにかくやばいです。ジャソンの上司であるカン・ヒョンチルに、ジャソンの兄弟ともいえるチョン・チョン。このふたりの男がジャソンに対して生き残る道を提示するのですね。それが指し示すものが結果的には同じことになるのですが、このメッセージが一方は逃れられない地獄を、一方が地獄からの解放というまったく正反対の形でジャソンに響くわけです。その生き残るための手段が「組織のなかでのぼりつめろ」「選択しろ」というのがまた、警察官として上昇社会を生き抜いてきたカン・ヒョンチルと華僑として韓国社会を生き抜いてきたチョン・チョンという、ふたりの背景を浮かび上がらせて猛烈に泣けます。
 しかしこの流れで最高にやばいのは、葛藤を抱く男たちが唯一重なり合う部分がジャソンに対して発せられる「生き残れ」という意思というところです。世界的な難問を解いた数学者の気持ちってこういう感じかなって思いました。まじ、やばい。
 


もうなんでもやばい


 おんなはバスターミナルに辿りついていた。
「チケット片道分、1枚」
 おんなが財布から紙幣を取り出すよりもはやく、1枚の切符が差し出された。
 チケットに行き先の記載はない。怪訝に思ったおんなは販売員に顔を向け「あっ」と声をあげた。
「あなたは……」
 映画館にいた店員であった。驚愕に言葉を失うおんなに、やはり動じることなく店員は言った。
「お客さん、まだ語り足りないんじゃあないですか」
「え、ええ…」
 店員の言葉におんなは頷いた。
「私が『新しき世界』に心から震えたのは、ジャソンのあの表情なんです。あの表情を見た途端、パズルの最後のピースがはまった、そんな気がしたんです」
イ・ジョンジェはとんでもない隠し玉を最後にぶつけてきましたね」
「はい…。あの表情ひとつで、今まで翻弄されるばかりのジャソンを見続けてきたと思っていたこちらこそ、むしろ今までずっとジャソンに翻弄されていたんじゃないか、そう思いました」
「スクリーンのなかの人間もそとの人間もこぞって翻弄されていたような気分になる瞬間でしたね」
「とことん、やばかったです……」
 まさにやおいであった。その共通する思いが店員とおんなの間に流れる空気にあたたかなものを生み出していた。
「イ・ジャソン マショウ スゴイ」
「なんで突然、カタコトになったんですか」
 特に意味はなかった。おんなの言葉に答える代わりに店員はバス乗り場を手で指し示した。
「そろそろ時間ですよ」
「え、でもこのチケット……」
「それはどこにでもいける、誰もが持っているチケットですよ。そうですね、今回はそれこそ『ジャソンは魔性』ってとこでしょうか。それでは」
 戸惑うおんなを残して、店員は姿を消した。チケットを握り締め、おんなは我知らず「ジャソン…魔性…」と呟いていた。
(そらあんな顔向けられたら、チョン・チョンだってちょんちょんなっちゃうわ------)


 おんなには愛はなかった。勇気もなかった。明日もない。
 しかし、どこまでも、やおいがあった。


 いつの間にか、おんなを乗せて、バスは走り出していた。
 チケットには「0801」という数字だけが刻まれている。
(確かに、私は1800円の人間だわ)
 おんなは笑った。


 だけど、映画は1000円で観たい。