凍てついた空気のなかに、時折やわらくとけた陽のぬくもりを感じる冬の終わりのことだった。いつものように背中をまるめてトールケースをなでながらばあちゃんは言った。

「ダニエル・ウーはなんのために上り詰めると思う?」

 答える代わりにぼくはばあちゃんを見た。ばあちゃんの視線はケースに注がれたままだ。ばあちゃんは黙ってぼくの言葉を待っていた。ぼくはゆっくりと記憶を辿る。今まで見てきたもののなかに答えにつながるものがあるかもしれない。そう思ったからだ。
 クリストファー・ノーランの「バットマン・ビギンズ」にこんな場面がある。あやまって古井戸の中に落ちてしまった幼いブルース・ウェインを救い出した彼の父親。息子を屋敷に運び入れながら彼は駆け寄ってきた執事のアルフレッドにこう言う。「人はなぜ落ちる? 這い上がるためだ」さりげなく紡がれた言葉だけど忘れられない。ぼくの大好きな場面のひとつだ。
 ブルースにとって恐怖の象徴であった蝙蝠のつばさは、いつしか彼を高く舞い上がらせた。では、ダニエル・ウーは? ダニエル・ウーが舞い上がった先にはなにがあるのだろう。
 ばあちゃんは手の中のディスクをひらりと振った。窓から差し込んだ日の光が反射して、まるで答えを指し示すようにディスクの上で銀色に光った。

 
ジェネックスコップ
原題:GEN-X COP 特警新人類 1999年/香港映画

「ダニエル・ウーの調子こいた笑顔が最高にたまらないね」

 香港で続発する凶悪事件。裏で糸を引いているのは「赤虎」と呼ばれる日本人ヤクザらしい。同僚を殺された刑事チャンは、素行の悪さから警察学校を追い出された問題児3人組、ジャック、マッチ、エイリアンを潜入捜査員に指名し、独自に捜査を開始する。
 主人公3人組を演じるのは、ニコラス・ツェー、スティーブン・フォン、サム・リーだ。ぼくの印象としては「硝子のジェネレーション」のナンたちがもしも黒社会に進まなかったら…といった感じだ。今回の彼らは明るく強い。どこまでも陽気に突き進んでくれる。

ニコラス・ツェーは華のある子だからね、ばあちゃん彼が画面に現れると釘付けになってしまうのだけど今回はなんといってもダニエル・ウーがすごかった。また日本語字幕だと役名もダニエルだものね、テンション上がっちゃうよ。ダニエルはマフィアである兄やその義兄弟ロコからもバカにされているダメっこマフィアな青年なのだけど、言動からいちいち「あ、こいつ本当にバカなんだ…」というのが最初からクライマックスな勢いで滲み出ているんだよね。赤虎と手を組んで、目の上のたんこぶだった兄を裏切って殺害して成り上がった途端に素肌ジャケットだもの。ジャケットの下に服、着ないんだもの。常に胸板と割れた腹筋さらして全身で「俺、調子こいてます!」と叫んでいる状態でね、カリフォルニア仕込みのイングリッシュもこれでもかと披露してくれるわけさ。まあ作中ではカナダで英語にかぶれて帰ってきた設定なんだけれども。こんなトんでるダニエル・ウーを見せられて、ばあちゃんがクールでいられると思うかい」

 ちなみに上の写真がジャックに向かって「Good boy!」となめらかな英語で言ってる調子付いてるダニエル。けれど、これから約10分後にはこの顔だ。


「こうしてならべると3分間クッキング並みのあざやかさだね」

 あっという間に震えるほどダニエル・ウーだ。

「レンジでチンというより銃弾でヂン!といったところなんだけども。未公開シーンでは命乞いのうえに早口言葉を無理矢理言わされていたぶられるダニエルという素晴らしい映像があって、ばあちゃん確実に寿命がのびた気がしたよ。赤虎演じる仲村トオルといい、ロコ演じるフランシス・ンといい、この映画は悪役が魅力的だね。ダニエルの部下にさりげなくテレンス・インが混ざっているのに、ばあちゃんびっくりしたよ。ばあちゃん、はじめてテレンス・イン見たの「美少年の恋」だろ? あんなに「ミスター・チンピラ」といった風情を醸し出してるのにテレンス・インが画面に出てくるたびに「美少年…美少年…」とつぶやいていたよ。まああの映画のテレンス・インも「美少年」っていうか「美少年風」といった感じなのだけれども」

 だけど「美少年の恋」が大好きなんだよ。つぶやくばあちゃんの目の前で、テレンス・インは銃弾を浴びていた。


潜入黒社会
原題:Cop on a Mission 知法犯法 2001年/香港映画

「これは生き埋めになる5分前の笑顔だね」

 ダニエル・ウー演じる主人公マイクは警察官だ。彼の父親もまた職務に忠実な優れた警察官であったが、それゆえにマフィアの報復に遭うことになり夫婦揃って銃弾に斃れた。その死が、マイクの心に陰を落としていた。伯父に引き取られた彼は家庭の中にも居場所を見出せず、けれども父のような警察官を目指すことにも躊躇いがあった。
 巡回中に巻き込まれた銃撃事件によって休職することになったマイク。現場復帰をのぞむ彼に与えられた任務は潜入捜査だった。洪興社。香港マフィアを牛耳る大組織の大幹部であるティンに取り入り、マイクは順調に出世を重ねていく。黒社会の人間として振舞えば振舞うほど、彼の心は彼自身も気づかぬうちに少しずつ冷たい闇に染まっていくのだった。

「冒頭でいきなり生き埋めシーンだからね、どう転んでもダニエル・ウーは助かりそうにないからね。彼がバッドエンドに辿りつくまでの人生ゲームを黙って見守る以外に、ばあちゃんなにもできないし」

「ダニエル・ウーが人生という坂道を駆け足でのぼればのぼるほど、そのあと転がり落ちる坂の傾斜が急になっていくというのは、なんというか驚いたよ」

 さすがダニエル・ウーだ。ぼくが言うと、ばあちゃんは深く頷いた。

「もうあれは芸の領域だね。のぼりつめて・調子こいて・落ちる。実に見事な流れ、見事なリズムだったよ。ばあちゃんはこれは「落ち芸」と呼ぶしかないなって思っちゃったよ。この映画はダニエル・ウーのお手本のような落ち芸を見せるためだけにつくられたといってもいいくらいだね。まあダニエル・ウーのシャワーシーンやトロ顔をやたら丹念に映しているところにも情熱めいたものを感じはしたのだけど」

 敵地に乗り込んで陰毛を剃られたりもする。ダニエル・ウーを撮る人間はダニエル・ウーをオトしたいと思わずにはいられないようだ。そんなことをつい考えてしまう。オトす、とはもちろん転落させたいということだ。

「ばあちゃん、ぼくわかったよ」

 ダニエル・ウーの落ち芸がぼくに見せてくれたもの。ばあちゃんが芸と呼ぶそれは「心を震わせるもの」のことだ。彼の転落っぷりは確かに感動させるものがあった。

「ダニエル・ウーが上り詰めるのは、落ちるためだ」

 ダニエル・ウーが舞い上がったとき、眼下には大きな裂け目が見えることだろう。彼を呑みこまんと開かれたそれは底のみえない暗闇だけをのぞかせている。
 ぼくは、ばあちゃんを見た。ばあちゃはぼくを見て、にっこりと笑った。