甄子丹教の話をしよう。

 略して丹教ともいう。ぼくが知ってる丹教の人間はひとりだけ。ばあちゃんではない。ばあちゃんは甄子丹を語らない。理由は「彼を語る言葉を持たないから」

 甄子丹。イェン・チータン。ドニー・イェンとも呼ばれる、その俳優はばあちゃんから言葉を奪う。だから、ぼくは丹教を通じてドニー・イェンを知る。
 丹教とは自分がドニー・イェンが好きだと感じるところからはじまる。好きだと感じた瞬間、自分が何者か知るという。すなわち丹教の人間だと。丹教に教義は無い。丹教信者を名乗る隣のおねえさんも他の丹教の人間とは会ったこともないという。ただ映画を見ながら漠然と「ああ、ドニーさんが好きだなあ」と思い「ありがとう」と自分の中にいるドニー・イェンに呟くだけの宗教、それが丹教だ。

「私にとって香港映画は、役者の魅力と根性ですべてをねじ伏せる、いっそ暴力的といってもいいような代物よ。観る方としては毎回喧嘩を売られてるような気分ね。かかってこい!と思ってしまうもの。ひと勝負終えたあとは…そうね、興奮することもある。がっくりすることもある。どうしてくれようかと思うことだってある。でも、どんなときでも胸の奥には熱が残っている。この熱の正体を知りたくて、私は何度も何度も香港映画を観てしまうの」

 あなたは違うの、とおねえさんはぼくは見る。ぼくにとって映画ってなんだろう。ぼくはなんで映画をみるのだろう。頭をひねってみたところで、おねえさんの眼差しに答えられるような言葉はなかなか出てこない。そういえば、ばあちゃんはなんて言ってたっけ。
 ばあちゃんはモニタに映像が映し出されるたびに「ふう」と大きな息をはく。まるで長いあいだ水にもぐっていたひとが、ようやく水面に顔を出せたといったみたいに。
「そうだね、現実は水みたいなもんだ。みえないものが息ができないように口をふさぐ。ときどき、ひどく息苦しいよ」ぼくの言葉に、ばあちゃんは深く頷きながら言った。「そう考えると、ばあちゃんにとって映画は呼吸をする場所なのかもしれないねえ」

 ばあちゃんの言葉を伝えると、おねえさんは「そうね」と答えて軽くまゆをしかめた。おねえさんのまわりにも水があるのかもしれない、とぼくは思った。


ドラゴン酔太極拳
原題:笑太極 1984年/香港映画


情敵逢手
日本未公開 1985年/香港映画

「字幕は不要よ」

 言葉なんていらない、と思える映画ね。英語字幕を追うことを早々にあきらめたおねえさんは言った。おねえさんは英語が苦手だ。ぼくもよくわからない。したがって物語の内容はよくわからない。
「ドニーさんが、ぶったおす。それだけでいいじゃないの。主語と述語だけで説明できるあらすじって素敵!」おねえさんは言う。情敵逢手はドラマパートがあったものの、ドラゴン酔太極拳は大部分がアクションだ。ドニー・イェンの動きを目で追っているだけで時間がたちまち過ぎていく。怒るときは怒る。笑うときは笑う。感情は全身をつかって、これ以上ないほどに明快に表現される。よって確かに台詞が理解できなくとも、それなりに楽しめてしまうのだ。「だってドニーさんを鑑賞するための映画だもの!」

 ドニー・イェンの動きはとにかく軽い。中身がない、という意味ではない。重力を感じないのだ。
 ドラゴン酔太極拳ドニー・イェンはとにかく脱ぐ。腕に、胸に、こんもりと盛り上がった筋肉をこれでもかと見せつけてくれる。「そんな彼の若い無邪気さが私にはすこし甘酸っぱかった…」なぜだか、おねえさんはしきりに照れていた。四十を過ぎたドニーさんから入ったというおねえさんの身に、この映画は知人のホームビデオを見せつけられているような気恥ずかしさと気まずさがあるのだという。ぼくにはわからない感覚だ。

「こんなに筋肉もりもりなのに、どうしてあんなに全身がやわらかいのだろう」

 やわらかな肉の動きが軽やかに映るのだろうか。

「ドニーさんの筋肉は風船なのよ……」

 おねえさんが言うにはドニー・イェンは「謎」のひとことらしい。

「ドニーさんを好きだと気づく前ならドニーさんを語ることができたのかもしれない。好きと気づいた瞬間に彼を語る言葉を失ったわ…」

 職業が吟遊詩人じゃなくてよかった。言葉を失ったら失職しちゃうものね。よくわからないことをつぶやいて、おねえさんはいつの間にか手にもっていた缶ビールを勢いよくあおった。丹教を自認するおねえさんがドニー・イェンに対して「ありがとう」と言うのは、ほかに言葉をもたないからなのかもしれない。

「どちらも踊るドニーさんがかわいいね」

「そうね。ドラゴン酔太極拳の人形に扮したドニーさんのロボットダンスも情逢敵手のアイドル然とした浮かれ系ダンスも実に微笑ましいわ。ドニーさんは本当にいつでも「おれ、じぶん、すきー」という思いで燦然と輝いているわ。自分への愛で自分をどこまで輝かせる…究極の自家発電を見る思いだわ……」

 なかば呆然とした口調でおねえさんは言った。丹教信者はドニー・イェンのまえには途方に暮れるしかないのだ。

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだって言葉、知ってる?」

「うん」ぼくは頷いた。ニーチェだ。

「こちらがドニーさんをのぞいている時、ドニーさんはドニーさんをみているのよ…」

 おねえさんの言葉にぼくは、深い森に迷い込んだような気分になり……そして言葉を失った。