おんなが倒れている。

 とあるアパートの一室である。床には帰宅するなり脱ぎ捨てた衣服と空のペットボトル、ビール缶、そして数枚のDVDが転がっている。六畳間に散らかったそれが、おんなのすべてであった。
 おんなが起き上がる気配は、ない。
 意識は失われたままだ。口元だけが、もごもごとわずかな動きを見せている。
「愛すべき…人がいて……キズを…負った……全ての…者…たち……」
 浜崎あゆみである。
 かつてメディアで女子たちのファッションリーダーでありカリスマと謡われた、あゆである。しかし、リーダーを求めるほどおんなはファッションに興味は無く、世間に向けて発信された流行にも、音楽にも関心は無かった。おんなは、あゆと接点を持つことなく三十年という時を過ごしてきた。
 そのおんなが、あゆを口ずさんでいる。倒れてもなお、おんなを突き動かすなにかがおんなに『M』を歌わせている。
 はたして、おんなにいったいがなにが起こったのか。

 話は、二時間ほど前にさかのぼる。



 

ノーボーイズ、ノークライ 
英題:The Boat - No boys, No cry - 2009年/日韓合作


 ジャケットを手に取ったとき、当然ながらおんなに意識はあった。妻夫木聡。ハ・ジョンウ。ジャケットには海を背景にふたりの男が映っている。横に並べると遠近法が狂うツーショットを眺めながら、爽やかな青春ものだろうとおんなは考えた。扇風機だけがいそがしくまわり続ける六畳間。蒸し風呂のような部屋に涼を届けるには潮風の吹く海辺で展開される男の友情物語は最適であるように思えた。男がいて、男がいる。季節は太陽の眩しさと暑さを理由に誰もが大胆になれる夏だ。何も起こらないはずはない、そんな下心もおんなにはあった。
 泣かない男はいない。タイトルが示すとおり、この映画は傷を抱えた男たちの物語だ。海には、ひとり孤独に痛みを堪えることしかできない、男たちの涙が溶けている。


 

ヒョング(ハ・ジョンウ)


 犬のような男だ。生き残るため、犬になるしかないと考えたのだ。
 家族はいない。母親は、彼が六歳の時に弟を連れて姿を消し、それきりだ。
 ヒョングは古びたボートに乗り込み、夜の海をひたすら進む。月に数回、韓国から日本に向けて荷物を届けるのが彼の仕事だ。海にはなにもない。水平線だけがどこまでも広がっている。慰めに思い浮かべる過去はなく、鼓舞のために思い描く未来もない。ヒョングにあるものは、ただボートに揺られる今だけだった。
 親に捨てられたヒョングはボギョンに拾われた。ボギョンは日本で成り上がった闇組織の男だ。一生の恩人ともいえる男の命に従い、ヒョングは無心に荷を運ぶ。ヒョングを「我が息子」と呼ぶボギョンだけが、彼に家族という夢を見せてくれる。けれども、夢はしょせん幻想に過ぎない。幻は波のようにあっさりと砕け散る。
 ヒョングはなにも知らされない。自分が運ばされてるものがなにか知ったとき、ボギョンの呼びかけが口先だけのものだったと理解する。
 実際、彼は犬だったのだ。



亨(妻夫木聡


 クズしかいない。亨が身を置くのはそういう世界だ。
 認知症の進んだ年老いた祖母。体を売ることしかできない妹。そんな妹の、父親が誰とも知れない三人の幼い子供たち。うちひとりは病弱で、いつどうなるともわからない。亨は家族から逃れられない。家族を養うために少しでも多くの金が必要だった。
 彼は金を得るためにはどんなこともした。妹に体を売らせることもいとわなかった。亨はクズを軽蔑している。金のためならなんでもやるクズをだ。けれど、いつの間にか彼自身も唾棄すべきクズたちの世界に染まっていた。亨にはそれが堪えられなかった。けれども、堪える以外に家族を抱えて生きていく術を彼は持っていなかった。
 海岸。闇のなかにボートの姿が浮かび上がる。荷物を抱える男に亨は呼びかける。「ヨボセヨ」
 男は答える。「ヨボセヨじゃねえよ」
 ヨボセヨは受話器越しに呼びかける言葉だ。けれども亨にとっては、相手が目の前にいても同じことだ。たとえ軽んじられても交流はしない。クズとは一線を保つ。それが亨に出来る唯一の抵抗だった。
 だが一線は、ある日崩れた。
 亨の吐き捨てた言葉に男は目を見開いた。「それ、韓国語か」



「ハ・ジョンウ…青い空と白い雲が…似合わねえ……」
 おんなは半ば呆然と呟いた。ハ・ジョンウの顔面の大きさのわりに小さな目に光はない。底の見えない沼を思わせる彼の暗い瞳は見るものの不安を掻き立てる。スクリーンのなかのハ・ジョンウは夜の似合う男だ。深い闇に覆われた海を突き進むボートに身を任せる姿が実にしっくりくる。
 そんなハ・ジョンウを陽の射す世界に連れ出す男が、妻夫木聡だ。爽やかという言葉をそのまま絵にしたかのような雰囲気をまとった妻夫木聡が横にいるだけで、ハ・ジョンウは清涼な風が吹く昼の世界に染まっていく。この男は、相手次第で何色にも変わるのだ。感情の読み取れぬハ・ジョンウの眼差しは「アナタ色に染めて」そう訴えているのかもしれない。


 ここで浜崎あゆみに戻る。

 序盤において、一仕事を終えたヒョングが女と遊びながら歌う曲が、あゆの『M』なのだ。
 ヒョングはマイクを握り締め、熱唱する。


 愛すべき人がいて、時に深く深いキズを負い、だけど愛すべきあの人に結局何もかも癒されてる…


 家族に捨てられた過去が心に陰を落としているヒョングは、心のどこかで家族を求めずにはいられない。
 家族に縛られている亨は、家族の存在を時に厭いながらも見捨てることができない。
 ふたりの男の生き様を表現しているものが、あゆの歌なのである。
 ヒョングは亨とともに過ごすうちに、彼の苦悩に触れることになる。家族によって苦しみ、傷ついている亨の姿に、ヒョングは自分を置いていかざるを得なかった母親の姿を見るのだ。亨の苦悩の奥に見えたやさしさが、母親を思わせたのかもしれない。
「カプソング、かな…」
 おんなは呟き、深く頷いた。


 ハ・ジョンウ渾身の浜崎あゆみの次に待ち受けるものが、PUFFYの『アジアの純真』だ。
 思い通りにならない人生に嫌気がさした亨がやけくそ気味に歌い始める。『8 Mile』におけるエミネムのラップばりに怒りが込められた亨の歌声に割り込んでくるのが、やはりヒョングなのだ。
 隣に見知った男が並んだ瞬間、亨の表情がやわらぐ。歌声に乗せて、ふたりの男の心は相手のなかへと溶け出していく。PUFFYによって、男たちの心がひとつに交わるのである。
「今はもう…流れでたら……アジア……」
 このとき、おんなに何が他に言えただろうか。男と男が視線を交わす。男の手が男に触れる。応える男が手を伸ばす。アジアかどうかはわからない。しかし、まさに流れでている。ピュアなハートが夜空に弾け飛びそうに輝いている。連中が夜空のしたでやりとりしていたのは密輸品だが、そこはここでは考えない。
 ヒョング。亨。おんなの目の前で、確かに今、アクセスラブが始まっていた。


 男たちの運命を歌い上げた、浜崎あゆみ
 男たちの心を結びつけた、PUFFY

 そして、死地に向かう男たちが乗り込んだ車内に流れるのがチャットモンチーの『シャングリラ』だ。


 シャングリラ 夢の中でさえ上手く笑えない君のこと ダメなひとって叱りながら愛していたい…


 ヒョングも亨も、割り切ったふりをすることで心の傷が放つ痛みに耐えてきた男たちだ。けれども家族と自由、互いに望むべきものを手にしながら、それゆえに苦しみを抱く男との邂逅によって欺瞞で覆い隠された心は暴かれ、凍らせてきた感情が溶け始めていく。ダメなひとって叱りながら愛し始めていくのだ。
「すげえ…カプソング映画だ……」
 おんなの手は無意識にスマートフォンに伸びていた。指先は流れるようにiTunesのアイコンをクリックしていた。これほどあからさまにカプソングを流されて、抵抗できる人間がどれほどいるだろうか。

 この作品において、人魚は幼い頃のヒョングの母へのイメージだという。

 夜の闇を吸い上げた暗い夜の海には、抗いようのない引力がある。孤独な魂を今にも飲み込まんと見渡す限り、四方に広がるそれをヒョングが何度となく駆け抜けることが出来たのは、人魚の存在があったからかもしれない。けれどもヒョングが海に落ちたとき、彼に近づいてきた人魚は触れる直前でひとりの青年の姿になった。マジで。本当に。

 ドやおいである。


 おんなは薄れゆく意識の中で、妻夫木聡の叫びを聞いた。


 あゆは告げる。

 理由なく始まりは訪れ、終わりをいつだって理由を持つ…

 仕事を終えたおんなを待っているもの、それは一杯の酒と、韓流である。
「どっこいしょ」
 机のうえに並んだ酒瓶とざくろ酢のボトルを押しのけて、ノートPCを立ち上げる。DVDドライブに挿入するものはもちろん決まっている。『新しき世界』だ。
「2月1日の公開日からもう1ヶ月半か…」
 おんなが映画館ではじめて観た日からはおよそ1ヶ月である。その間、おんなが得たものは、海外版『新世界』DVD4本、イ・ジョンジェ出演作DVD16本。クレジット・カードの請求額が凍てついた隙間風で冷え込む室内温度をいっそう下げる。しかし、おんなは感じていた。まだ、終わらないのだと。
 モニタに映し出される、もはや見慣れたと言ってもいいほどに繰り返し見た映像。耳になじんだ音楽。それでもなお、それらはおんなに新鮮な興奮をあたえてくれる。網膜にやきついた請求額も数字の羅列となって、あっという間に意識のそとへ流れ落ちていく。
 そうして、おんなは思う。
「スーツ男たちに囲まれた兄貴って、ギャルゲーの主人公みたいだよね」






チョン・チョン(ファン・ジョンミン)

 俺の名前はチョン・チョン。まわりの人間からは「兄貴(ヒョンニム)」って呼ばれている。柄じゃねえやって思っていたこの呼び名もいつの間にかなじんで、俺をつくりあげるもののひとつになってしまった。兄貴。兄貴。兄貴。呼ばれるたびに足元がかたくなっていくのを感じる。俺はしっかりと地面を踏みしめる。さあ、愛すべき舎弟たちのもとへ向かうとするか。





「ばかっ、兄貴なんてもう知らない!」

そっけない態度の奥に揺れる心を抱く古女房ヒロイン…… イ・ジャソン(イ・ジョンジェ

 兄貴からのプレゼント。嬉しくないってわけじゃないけど、中身については期待しない。だって、このひと趣味がわるいんだもの。そう思いながら、手渡された箱を開けてみたら案の定……ひと目でニセモノとわかるブランド時計。あーあ。予想はしていたけど、やっぱりなんだかがっかりしてしまう。つい、いつもよりそっけなく突き返す。ここにいる私も、ニセモノかも、しれないんだよ…? ニセモノがニセモノをつけるなんて悪趣味にもほどがあるじゃない。


「兄貴、ジャソンさんのことはまかせといて!」

不器用なジャソンを器用に支えるしっかりものヒロイン…… ソンム(キム・ユンソン)

 目の前には懇願するオトコ。だけどジャソンさんは眉ひとつ動かさない。でもそれは私も、ここにいるほかのみんなも同じ。顔に出してしまったら命取りになるコトだってある、ここはそういうセカイ。ジャソンさんの冷たい顔を眺める。こんなことはもうすっかりなじんだって顔。そりゃそうだよね、私より長いことここにいるんだから。だけど、なんだかこのひとほっとけないところがあるんだよね。それに兄貴のたいせつなひと、だしね。
 

「ほーら、元気出してっ、兄貴」

兄貴をそっと見守る健気ヒロイン…… ヤン・ムンソク(ナ・グァンフン)
 後部座席にすわる兄貴の顔はかげっている。彼の手に持つ書類のことを考えたら、それも納得。私だって驚いてるんだから。でも、私にはなにも言えない。そう、いつだって悩み苦しんでる兄貴を見つめることしか私にはできないのだ。私は彼の言葉を待つ。兄貴の携帯が鳴った。わずかに見せた逡巡だけで、誰からの電話かすぐにわかった。兄貴……。私は、ただ待っている。


「ボクだってしっかりしないと…。ねっ、兄貴」

ソンムとともにジャソンのサポートにつとめる豆顔ヒロイン……手下1(テ・イノ)

 オトコの足元に向けてかなづちを振り下ろす。ジャソンさんやソンムさん、それにほかのみんなも見ている。たとえ、ためらいがあっても、そぶりに見せてはいけない。ほんのすこしの弱味がおしまいにつながる、目の前のオトコが誰よりもそれを僕に教えてくれる。オトコの懇願の眼差しよりも背中にあたる視線のほうがずっと鋭く突き刺さる。僕もしっかり頑張って、ジャソンさんやソンムさん、そして兄貴みたいにならなくちゃ。


「兄貴ぃ、びっくりしたぁ…」

画面右から4番目(チョン・チョン右隣)公家顔ヒロイン…… 手下2(イ・ギョンホン)

 駐車場に出た僕たちに向かって、車が勢いよく突っ込んでくる。とっさに兄貴をかばって前に出るジャソンさん。さすが、と思う一方で出遅れたことに対するふがいなさがこみあげてくる。兄貴はたぶん、責めはしないだろうけど、僕たちはそういう兄貴に甘えてはいけないんだ。


「兄貴、それはちょーっと痛いかも…」

画面右から4番目(ソンム右隣)割れ顎ヒロイン…… 手下3(チャ・ヨンハク)

 ソンムさんの頬に兄貴のひらてが飛ぶ。ジャソンさんにそっけなくされた兄貴のなかばやつあたりであってもスキンシップには変わりはない。ソンムさんの横顔を見る。わずかに戸惑いを見せながらも、そこに反抗の色はない。無邪気な暴力をだまって受け止めることも、僕らの、シゴト。


「兄貴、もうへとへとだよぉ…」

兄貴にどこでも付き従うわんこ系ヒロイン…… チョン・チョン系1(チョン・ジェホン)

 今日はなんだか兄貴の口数がすくない。なにかがあったとしても、そこに僕のような下っ端が踏み込むことはゆるされない。重たくかげる室内は、そのまま兄貴のこころのうちを表しているよう。兄貴。重圧に耐え兼ね、何度でも喉元までせりあがってくる言葉をその都度、必死にのみくだす。はやく笑いかけてくれたらいいのにな、と思うのだけど、どうやらそうはいかないみたい…。


「どうぞ、兄貴のお好きに」

黙ってつとめをまっとうするクール系ヒロイン……チョン・チョン系2(イ・ヒソク)
 とっさに反応はできなかった。だって「殴れ」だよ。兄貴ったら、あいかわらず何を言い出すかサッパリわからない。だけど命令どおり、助手席に目をやり、手を振り上げる。こちらに向けられる戸惑いの眼差し。こーら、あんたもそういうとき、いちいち顔に出さない。ただでさえやりづらいマネが、さらにやりづらくなるじゃない。手のひらに肉がぶつかる感触。車内に響き渡る音。笑い声。まったく、兄貴にも困ったもんだ。


「兄貴、私、頑張るから」

振り向けばそこにいる、漂う魚顔ヒロイン…… チョン・チョン系3(キム・ソウォン)
 キム理事の視線が横顔にそそがれる。いや、キム理事だけじゃない、何かを察したほかの理事たちもこちらに視線を向けている。それもそうだ、彼らの想定外のことが起ころうとしているのだから。だけど、私はこたえない。いつもどおり、黙って立っていればいい。そして、これから起こることを見届けるのだ。


「はい、兄貴」

無表情に徹しきれない、ちょっぴり隙のあるヒゲ面ヒロイン…… チョン・チョン系4(パク・チフン)
 視線に呼ばれて足を踏み出す。肩にまわされた兄貴の手。しっかり押さえ込む手の感触に、このひとは人に触れることが好きなひとなのだろう、とふと思う。促されるままにライターの火をつけると、ちいさな炎のあかりが、傍らに寄せられた兄貴の顔をほのかに照らした。唇に挟まれた煙草に橙色がじわりと灯る。気持ちよさそうに細められた眼差しが、煙草の焼ける音とともに私の胸を焦がした。


「よっしゃ、いっちょやりますか、兄貴!」

スーツのしたに生命力をみなぎらせる武闘派ヒロイン…… チョン・チョン系5(カク・チンソク)
 左腕にはまだ無理矢理掴みこんだ腕の感触が残っている。今日過ごした時間がおなじように明日にも存在しているとは限らない。ここはそういう世界だ。誰に言われるまでもなく、それはよくわかっている。だけど心の中でくらいは罵らずにはいられない。畜生、いったいどうしてこんなことになったんだ。


「仕事、だもんね、兄貴」

画面右端小顔ヒロイン…… チョン・チョン系6(クォン・ヒョク)
 革張りのソファにゆったりと体を預ける男を見下ろす。こちらの視線を受けても、男にたじろく様子は微塵もない。お前たちのような下っ端とおなじ土俵に立つつもりはない。悠然とした態度は言外に、そう告げているようだった。傍らの同僚をちらりと見やる。男の心中などどうでもいい、そんな顔。そうだね、どうでもいいよね。ね、兄貴。


「しょうがない、よね、兄貴……」

画面左端くたびれヒロイン…… チョン・チョン系7(シン・ソンイル)
 重みが増したドラム缶を力いっぱい蹴りあげる。中身に何が詰まっていようと、いつもと変わらない作業。ドラム缶は、海に向かって吸い寄せられるように転がっていく。ばしゃんと海が砕ける音がしたら、それで仕事はひとつおしまい。また次の仕事が待っている。何も変わらない。だけど今日はほんの少し、疲れちゃったな…。


「……………兄貴」

きっとどこかにいるヒロイン…… チョン・チョン系8(ナム・ギョンミン)

 ※不明につき、存在感のある丸刈り頭を眺めておいてください


「これでいいんだよね、兄貴」

画面左端やんちゃ面ヒロイン…… チョン・チョン系9(ハム・ジンソン)
 あわれな男を乗せて、車は二度と戻れぬ場所に向かって進み始める。作業完了の確認とごくささやかな供養をかねて最期を見送る。背をむけた瞬間、きれいさっぱり男の存在は頭のなかから消えてなくなる。よっしゃ、ひと仕事終わり。さーて、戻りますか。


「行こうよ、兄貴」

画面右から2番目平目顔ヒロイン…… チョン・チョン系10(ソ・ジョンチョル)
 扉が開く。背をぴんとのばしたジャソンさんが立っていた。右から左へと視線だけ動かし、並んだ顔ぶれを確認すると、あとはもう興味ないといった調子で足をすすめる。背後に付き従うだけの私には、ジャソンさんの心中を窺い知ることは決してできない。だけど、その足取りには確かな何かを見据えた力強さを感じた。いっしょに頑張ろうね、ジャソンさん!





「おかえり、兄貴!」

両手では足りない数の舎弟(ヒロイン)たちがいつでも兄貴(アナタ)を待っている……




 おんなの意識のなかで、チョン・チョンを取り囲む男たちがひとつに混ざり合い、やがて「ハーレム」という言葉になった。
 ハーレム。それは、ひとりの男の持つ権力を複数の男たちの姿に変換したドリームクラブ。ひらたく言うと、目が合っただけで「そちを抱く」というサインになる世界だ。


 やったね!
 おとこたちを!!
 いっぱい抱く…!!!


「つまり、やおい……」
 内側からも外側からも男に絡み取られる男しかいない『新しき世界』とは、おんなのなかでどこまでもやおいにしか辿り着かぬ映画であった。


 やっばい!
 おとこたちが!!
 いっぱい抱かれる…!!!


 おんなは昼間から深夜のテンションで男たちのハーレムを噛み締めるのであった。



forever...

「あんた、新世界…見たな?」


 ささやかなランチタイムを終え、映画館に足を踏み入れるなり、飛んできた言葉が、それだ。
 小さな映画館だ。ロビーも広くはない。声の方向に首をめぐらすと、壁際のソファに寝そべった男がこちらを見ていた。伸びざらした前髪の奥で、こちらの視線を受け止めると無精髭を散らした口元を笑みのかたちに歪めた。
「わかるんだよ、俺には。新世界をやっちまったやつの顔はよう。どいつもこいつも、なにかを掘り起こされちまった、そんなツラをしてやがる。あんたは、そうだな……」
 男は顎を撫でた。探るような視線が頭から爪先まで、全身を、撫でた。
「さしずめ、これから3回目ってとこだな」
 確信に満ちた顔だ。男の言葉に、思わず息をのんだ。財布にはすでに切り取られた半券と、これからモギリの手にわたる当日券がある。朝いちばん、開店と同時に買ったものだ。
「あんた、いつから見てたんだ」
 午前十時。店員とやりとりしていたとき、男はいなかった。ほかの客といえばリバイバル上映の『ゴッドファーザー』を目当てにやって来た老婆がひとりいたくらいだ。
「言ったろう、顔見りゃわかるってよう。俺は忠告してるんだぜ」
 漂いはじめる剣呑な空気も、まるで意に介した様子はない。芝居がかった仕草で肩をすくめ、こちらの問いを軽く流す。
「あんた、新世界をはじめて見たとき、どう思った」
 答える必要はない。そう、沈黙をもって返すつもりだったが、男の瞳に宿った真剣な色に、気づけば口を開いていた。
やおい、だ」
 すっげえ、やおいだった。やおいとしか言い表すことのできない、やおいがみっしりと詰まっていた。
「そうだ、やおいだ。俺も同じよ。チョン・チョン見たろ? あのもじゃもじゃしたオールバックの男だ。あいつ、弟分のイ・ジャソンしか見てやがらねえ。サングラスをかけようがはずそうが、そいつは変わらねえ。それもちょっとやそっとじゃない。ずっとだ。あいつずっとジャソンを見つめて、ジャソンのことしか考えちゃいなかった。ジャソンもそうだ。チョン・チョンの前でだけ、張り詰めたものがほぐれたような、ふわっとした隙のある笑みを浮かべやがるのよ。それでいて、目的地を見失った船のように、男という灯台のあいだをさまよってやがる。情という灯りがぽっとともるとふらふらと引き寄せられていく。ジャソン、あいつもたいがい男しか見ちゃいねえ。俺ははじめて観たとき、思わず天を仰いだね、なんてこった!ってな」
 一息にまくしたてるように言葉をはきだす男に、頷かずにはいられなかった。
「2回目観たときは、さらにやおいだった……」
 登場人物全員、デキてんじゃねえか。そう思わずにはいられない、やおいの園だった。あいつら全員、肉体関係あるんじゃねえのーーーー! 喉元までこみあげた叫びをクリスタルカイザーで強引に飲みくだした記憶がよみがえる。
「まったく、その通りだ。1回目はチョン・チョンとジャソンの完全にデキあがってるとしかいえねえ兄弟の物語に動揺して、あいつらふたりを見守るのがせいぜいだった。ところがどうだ、2回目は、ふたりに対する衝撃がいくぶんやわらいだぶん、ほかに目がいっちまうじゃねえか。ジュングとヒョンチル、過去になにかあったの? ははあん、暴れん坊の不良小僧とそれを補導する警官的な? そりゃあ夏の終わりをキッスではじめる、カルピス味の思い出のひとつやふたつあったんじゃねえの、とかな。あとチョン・チョンともあやしいだろ、ジュング。小生意気な年下のぼうやのよくまわる口を塞ぐっつったらオメエ、そりゃあ唇じゃねえの!?ってな、言いたいだろ?」
「会長がチョン・チョンをかわいがってた、という情報ひとつだけでも千夜一夜物語になるな」
「ああ、男と男しかいねえ、やおいの千夜よ。やおいってのは、やおろずの「八百万」に、つなぐの「維」って書くっつうじゃねえか。数え切れねえ男たちをつなぐ、それが「やおい」ってもんだ。新世界にはよう、チョン・チョンやジュングのうしろにずらりならんだ舎弟どもを合わせると、まさに数え切れねえくらいに男が出てくんだ。そいつらが全員デキあがってたって、ちっともおかしくはねえ。おい、ジャソンの部下によ、いたろ? なあんか、荒事に向かなそうな顔したちっこいのがよ。そいつがよ、チョン・チョンとジャソンがじゃれてんの見て、笑うんだわ。いかにも思わずこぼれでたっつう感じでよ。俺は思ったね、あいつ、チョン・チョンとジャソンのガキなんじゃあねのって」
 それは、年齢的に無理があるだろ。そう思い、そう顔に出した。こちらの無言のツッコミに男は吠えた。
「ねえよ! やおいに無理なんかなにひとつねえ! この世のありとあらゆる無茶を、男と男が交わす微笑みひとつですべて通す、それがやおいってやつだろ!? やおいという道理が、やおいにはあるんだよ!!」
 やおいという道理、その通りだ。
「お前の言いたいことはよくわかる。1回目の感想は、やおい。2回目も、やおい。なら3回目ももっとやおい、それだけの話だ。お前は、いったいなにを伝えようとしてるんだ」
 こちらの問いに、男は喉の奥で、なにかを押し殺したように呻き、それからゆっくりとかぶりを振った。
「俺は、3回目で、このザマよ」
 自嘲気味に嗤って、男はくたびれたコートから取り出したボトルウイスキーをあおった。
「今じゃあ、酒を飲んでも自分がなにに酔ってんだかわかりゃしねえ。酒と新世界の区別もつかなくなってんのよ」
 ウイスキーを喉に流し込む男に、さきほどまでの威勢のよさは欠片ほどもない。3回目の新世界が、いったいこの男になにをもたらしたのだろう。
「あんた、どうあったって3回目、観るんだろう。わかるよ、あんたはやおいを求めてる。そして、新世界というやおいを知っちまった。そりゃあ、観るしかねえよな」
 俺も無駄なことをしたもんだ。男はそっと呟いて、顔をふせた。
「だけどよう、やっぱりひとつだけ忠告させてくれ」
 男の言葉に、頷きで返す。男はそれを見て、ふっと笑った。


「新世界は、3回目で色が変わるんだ」




 それから数時間後、マッコリボトルを握り締め、夜の町をさまよっていた。
 白く濁ったマッコリのように、視界も、意識も、白くもやがかっていた。


 遠くで男の声がした。


 「俺にはわかるよ、あんたはもうマッコリとドッキリの区別もついちゃいねえ」


 なに言ってんだコイツ。男に言葉を返そうと口を開いた。なんと返そうとしたのかは、わからない。
 薄くひらいた唇の間から、吐息のようにこぼれでたのは「スーツ」ただそれだけだった。



 


スーツの世界


 薄々と、自覚はしていた。
 スーツの男を見ると、興奮する。
 正確には、スーツの男の集団を見ると、興奮する。
 

 現実のそれはどうでもいい。私は、映画のなかにいるスーツの男が好きなのだ。
 スーツとは、男の心の貞操帯である。オトコノコのいちばん大切なものをそっと覆い、護っているもの、それが私の考えるスーツ。そしてその貞操帯の鍵をかけるものは、男本人の意思ではなく、男がさらにうえに仰ぐものの意思である。
 なにものかに身を任せ、ただなにものかの一部になった男たち。それがスーツ男の集団。


 オトコノコのいちばん大切なものってなんじゃい? そんなもんは知らん。



ジュング・ボーイズ


 男の背後にスーツの男が並ぶ。このとき、スーツ男は、男を飾るアクセサリとなる。



チョン・チョンの男たち


 男の手足となり、男の心を満たすスーツ男たち。正直、ハーレム、だよね!



スーツ大乱闘


 スーツ男たちが並ぶ空間。そこにはぴんと張り詰めた、静かな緊張感が満ちている。
 そこに、乱闘。
 かっちり着込んだ、しわひとつないスーツのしたで、躍動する肉体。そのアンバランスさは、噴き出す感情をぶつけあう命を賭けたやりとりのなかで、膨れ上がり今にも張り裂けんばかりの動の緊張感を生み出す。
 このとき、傷ついた手に巻きつけられるものはネクタイである。清潔な白いシャツは埃にまみれ、赤く染まる。
 スーツ男たちが生み出す調和の美が崩れる瞬間、そこになんともいえぬカタルシスを得る。それは、スーツ男の集団に興奮する人間なら失禁しかねぬほどの勢いだ。


 上映前にトイレに行っておいてよかったと、心から思う瞬間である。



おとこ女王


 すらりと体格まで整った、見目いいスーツ男たち。
 それを引き連れるのは、わずかに強張った、冷たい顔をした、しなやかな体つきの男。
 このとき、イ・ジャソン。おとこ女王の風格である。というかコイツ、迷子の子猫ちゃんのような顔して、若い男を侍らしてる姿が、すごく、似合う。すごく、いい。
 北大門組派閥のNo2イ・ジャソン。別名、北大門の極道の妻である。煙草をくるくると弄ぶ手つきが尋常でなく美しいこの男に、スーツ男たちの尖った顎を撫でてもらいたい、そう心の底から願わずにいられない。


 やおい女は心から、おとこ女王に頭をたれる。



傘持たせて侍らす姿もGOODだね。




 マッコリはいつの間にか空である。マッコリとともに飲み込んできた言葉をそっと吐き出す。
「3回目で、イ・ジャソンは私の中で女王様になったよ------」
 やおろずの男たちをつなぐ手綱を握る存在、それがおとこ女王。


 やおいを求めた先に、やおいに君臨する男が、いた------


NEVER END...

 灰色にくすんだ空に雪が舞い、凍てついた空気が肌を刺す、そんな日であってもひとは映画館に足を運ぶ。
 開店前から入り口に並ぶ客の数は、二十を超す。
 行列にくわわりながら、おんなはぼうと考えた。
(そういえば3人で行ったら一人1000円になるんだっけ)
 主演の3人にちなんだ割引キャンペーンである。
 だが、おんながひとを連れ立って映画館に足を運ぶことはない。ひとりで観て、ひとりで反芻する。これが、おんなの映画生活であった。
(そういえば愛と勇気が友達だと言っていたヒーローもいたな)
 頭部に餡子の詰まったせいぶつの姿を思い浮かべて、おんなはかすかに自嘲的な笑みを浮かべた。愛と勇気が友達だと、人前で、ためらうことなく口にすることができたなら、おんなは1000円で映画を観れたかもしれない。だが、おんなには愛はなかった。勇気も、なかった。
「『新しき世界』1枚」
「1800円です」
(そうだ、私には1800円が相応しい)
 おんなの差し出した二枚の千円札を受け取りながら、おんなにしか聞こえぬ声で、店員は言った。
「お客さんには、あるじゃあないですか」
 心根を見透かすのような店員の物言いに、おんなは顔をあげた。他人に心を暴かれた羞恥がおんなから言葉を奪っていた。黙って睨みつけることしかできぬ、無力なおんな。だがしかし、店員は動じることなく言葉を続けた。
「なあに、2時間後にはわかりますよ」
 おんなの手のひらに、百円玉が、おちた。


 さて、およそ2時間後、おんなは走り出していた。
 走り出さずにはいられなかった。そうでなければ、おんなは叫びだしていたことであろう。
「チョン・チョン×イ・ジャソンでお願いしまあす!」と。


 なるほど、おんなに愛はない。勇気もない。
 

 だが、おんなには、やおいが、あった。


 

新しき世界

原題:신세계 新世界 2013年/韓国映画


 売店で買ったパンフレットとTシャツを抱え、気づけばおんなはあてもなく町をさまよっていた。
 おんなの脳裏に浮かぶものは、肉体を、魂を、無残に磨り潰された人間たちの叫び、そしてやおい。とにかくやおい。それでもってやおい。超、やおい……。おんなはおのれの名すら忘れかけるほど一心に、自分が目にしたやおいのことを考え続けた。


 
イ・ジャソン(イ・ジョンジェ


 華僑という出自を買われ、潜入捜査官として犯罪組織ゴールド・ムーンに送り込まれる。彼を支える警察官としての規範も、八年という月日のなかで徐々に揺らぎ始める。彼が得たものは妻であり、兄であった。とりわけ、兄が注ぐ深い情がジャソンを苦しめていた。偽りの世界が彼のなかで確実に根を張りはじめていたのだ。
 八年間。祈るような気持ちで、ジャソンは任務の終わりを待ち続けていた。ゴールド・ムーン会長の死によって、彼はとうとう解放されるのだと思った。だが、事態はジャソンをさらなる地獄にいざなっていく。目の前で流れる血が果たして自分にとってどういう存在であった人間のものなのか、それすらもはやわからない。傷ついたこころからふきだす血がジャソンをべつのいきもののように作り変えていく。
 組織の意思に従い、他人を欺き、自分を欺き続けてきた男が、やがてはじめて自らの意思によって生きることを選んだとき、新しい世界があらわれる。



カン・ヒョンチョル(チェ・ミンシク


 ソウル地方警察庁捜査企画課課長。ジャソンを捜査官として送り出す。
 ゴールド・ムーンを内側から磨り潰し、作り変える「新世界プロジェクト」を発案。目的のためならいかなる手段も厭わない冷酷な顔のしたにあるものは疲れきった、老いた人間のそれだった。廃屋のなか、ひとり濁った水に釣り糸を垂らしながらジャソンを待つ。
 ヒョンチルの教え子は、彼の与えた任務によって無残な死を遂げた。それでもヒョンチルは、部下に対して地獄を進めと命じる。終わりのみえない孤独な人生を、彼はそれでも終わらせることはできなかった。ジャソンが職務に対する忠誠心と情の狭間で悲痛な叫びをあげ続けてきたように、ヒョンチルもまた組織の規範と人間の情の間に渦巻く葛藤を押し殺してきたのかもしれない。疲弊し、澱んだ眼差しのなかに、彼が眺め、身を置く地獄があった。


 

チョン・チョン(ファン・ジョンミル)


 ゴールド・ムーン専務理事にして組織の実質No2。歯向かうものに対しては苛烈な暴力性を見せつける一方で、心を許した相手には深い情を寄せ、自分とおなじ華僑という出自を持つジャソンには兄弟として接する。
 隣で笑っている人間が次の瞬間には銃を向け、襲い掛かってくる。チョン・チョンが駆け抜けてきたのは、そういう世界であり、そのなかを、ともに生き抜いてきたのはジャソンだった。重ねられた年月が、同胞に対して芽生えた情をより強固なものに変えていく。それはいつの間にか別ちがたく彼のなかに溶け込んでいた。
 からかい、ふざけて笑いながらも、兄は注意深く弟の様子を見守っていた。韓国社会に生きる中国人として、チョン・チョンもまた、アイデンティティの揺らぎを味わったのかもしれない。だからこそ、ジャソンを引き裂こうとするものを感じ取り、理解し得たのだろう。
 目の前の人間がひととしての輪郭を徐々にうしなっていくジャソンのなかで、唯一ともいえる「人間」が兄であったように、チョン・チョンにとっても自分とおなじ苦しみを抱える弟こそが「人間」だったのだ。

 


 目で会話する男たち



 すごく目で会話する男たち


 真実を見失った世界で、おんなもまた、どこまでが映画で観た光景かどこまでがおのれの妄想か、完全に区別を失っていた。パンフレットを広げてみても、妄想のように思えてくる。圧倒的なやおいを前に、おんなの自我は崩壊しつつあった。
 地面の感触すらわからぬ、ふわふわと宙を歩く足取りでおんなは歩き続ける。
 空腹で飛びかける意識を黒糖の甘味によって繋ぎ止める生活を送るおんなに明日はない。だが、やおいがあった。



 生き残るための3つのやおい


1.チョン・チョンがやばい


 兄貴は全面的にやばいです。あの手のはやい男が、兄弟に対してはおふざけでも決して手をあげません。傷つけまいという意識が徹底してて、やばいとしか言いようがありません。
 兄貴が繰り出してくるガン泣かせ小道具のひとつが腕時計です。これからの私は悪趣味な腕時計を見るたびに号泣する人生を送ることでしょう。置き場所にいっそう兄貴の思いを感じ取って叫びたくなります。どんだけ大切なんだよ。
 ふたつめがエレベーターです。エレベーターといえば古今東西、男たちの魂を乗せて運ぶゴンドラとしての役割も備わってます。これからの私はエレベーターに複数人で乗り合わせるたびに兄貴の姿を幻視して錯乱する人生を送ることでしょう。私の魂もエレベーターに乗って運ばれていくのです。なんか、3階とかに…(※映画館フロア)


2.イ・ジャソンがやばい


 やばいです。いろいろとやばいです。華奢な体形がやばい、時折みせるよるべない表情がやばい、兄貴と絡むときの緊張感がわずかにゆるむ感じがまじでやばいとか海に向かって叫ばずにはいられないやばさがあります。やばい。
 役者には瞬間最大視聴率的に美しさがもっとも高まる瞬間というのがあると思うのですが、ジャソンの瞬間最大美貌率は個人的に時計をはめた瞬間です。チョン・チョンによって美しさが天井知らずになる男、それがイ・ジャソン。兄貴はほんとうにやばいですね。そんな兄貴によって輝くジャソンもやばい。つまりそういうことです。


3.とにかくやばい


 とにかくやばいです。ジャソンの上司であるカン・ヒョンチルに、ジャソンの兄弟ともいえるチョン・チョン。このふたりの男がジャソンに対して生き残る道を提示するのですね。それが指し示すものが結果的には同じことになるのですが、このメッセージが一方は逃れられない地獄を、一方が地獄からの解放というまったく正反対の形でジャソンに響くわけです。その生き残るための手段が「組織のなかでのぼりつめろ」「選択しろ」というのがまた、警察官として上昇社会を生き抜いてきたカン・ヒョンチルと華僑として韓国社会を生き抜いてきたチョン・チョンという、ふたりの背景を浮かび上がらせて猛烈に泣けます。
 しかしこの流れで最高にやばいのは、葛藤を抱く男たちが唯一重なり合う部分がジャソンに対して発せられる「生き残れ」という意思というところです。世界的な難問を解いた数学者の気持ちってこういう感じかなって思いました。まじ、やばい。
 


もうなんでもやばい


 おんなはバスターミナルに辿りついていた。
「チケット片道分、1枚」
 おんなが財布から紙幣を取り出すよりもはやく、1枚の切符が差し出された。
 チケットに行き先の記載はない。怪訝に思ったおんなは販売員に顔を向け「あっ」と声をあげた。
「あなたは……」
 映画館にいた店員であった。驚愕に言葉を失うおんなに、やはり動じることなく店員は言った。
「お客さん、まだ語り足りないんじゃあないですか」
「え、ええ…」
 店員の言葉におんなは頷いた。
「私が『新しき世界』に心から震えたのは、ジャソンのあの表情なんです。あの表情を見た途端、パズルの最後のピースがはまった、そんな気がしたんです」
イ・ジョンジェはとんでもない隠し玉を最後にぶつけてきましたね」
「はい…。あの表情ひとつで、今まで翻弄されるばかりのジャソンを見続けてきたと思っていたこちらこそ、むしろ今までずっとジャソンに翻弄されていたんじゃないか、そう思いました」
「スクリーンのなかの人間もそとの人間もこぞって翻弄されていたような気分になる瞬間でしたね」
「とことん、やばかったです……」
 まさにやおいであった。その共通する思いが店員とおんなの間に流れる空気にあたたかなものを生み出していた。
「イ・ジャソン マショウ スゴイ」
「なんで突然、カタコトになったんですか」
 特に意味はなかった。おんなの言葉に答える代わりに店員はバス乗り場を手で指し示した。
「そろそろ時間ですよ」
「え、でもこのチケット……」
「それはどこにでもいける、誰もが持っているチケットですよ。そうですね、今回はそれこそ『ジャソンは魔性』ってとこでしょうか。それでは」
 戸惑うおんなを残して、店員は姿を消した。チケットを握り締め、おんなは我知らず「ジャソン…魔性…」と呟いていた。
(そらあんな顔向けられたら、チョン・チョンだってちょんちょんなっちゃうわ------)


 おんなには愛はなかった。勇気もなかった。明日もない。
 しかし、どこまでも、やおいがあった。


 いつの間にか、おんなを乗せて、バスは走り出していた。
 チケットには「0801」という数字だけが刻まれている。
(確かに、私は1800円の人間だわ)
 おんなは笑った。


 だけど、映画は1000円で観たい。

拝啓 林超賢 様


 はじめまして、こんにちは。


 観ました、『激戰 UNBEATABLE』。
 観終えたとき、気がついたら二回目をすでに観始めていました。
 二回目を終えたときには、三回目を。
 そして今、四回目の『激戰』が私の六畳間に流れています。



激戰 2013年/香港映画


 この、半裸でメンチ切ってる坊主のおっさんと若造が師弟関係にあると知ったときの私の気持ち、おわかりでしょうか。
 師弟。なんの縁もない人間が「継承」、ただその一点によって結びついている関係。受け継ぐものは技術であり、意志であり、哲学。いわば魂そのものです。ゆえに別ち難いほどに強く、深く結びついているのだと……つまり、魂レベルで常時セックスしてる関係であると、私は思うのです。ひととひととの結びつきをなんでもセックスの一言でまとめようとしてしまう、私の浅はかさをお許しください。ノーセックス・ノーライフ。
 私が坊主のおっさんと子犬のように澄んだ瞳をした若造に向ける目がどういったものか、監督に伝わったと思います。そして、どれだけ平静でいられなかったのかも。


 それだけに、香港から届いたBDとDVDを受け取ったとき、私は途方に暮れました。興奮のあまり、どうしてよいのかわからなくなってしまったのです。
 震える手で包装ビニールをやぶり、床に放置したのち、足は自然にトイレに向かっていました。いつもより多くトイレットペーパーを巻き取ったところで気持ちはちっとも落ち着きません。気がつけば、全裸で水浴びをはじめていました。



 真冬である。浴槽にはった透き通る水は刺すような冷たさであった。斜めにかざした桶から流れ落ちた水が肌にふれるたび、からだ中の筋肉がびくりとはねるのがわかった。
 だが、冷気が全身を刺し貫くたびに、斧子は、おのれの奥にある、芯のようなものが、徐々に熱くなっていくのを感じていた。
(おれは激戰を観るのだ)
 近付きつつあるいくさの予感が、斧子を高ぶらせていた。


 心の声までも中途半端な司馬遼太郎調になる始末でした。


 監督とはじめて出会ったのは、いつの頃だったでしょうか。
 
 
 あれは1、2年ほど前、『重装警察』であったように思います。
 潜入捜査員として任務に従事していたチン・ガーロッの肉体を、マフィアの放った銃弾が貫くのを、目を瞑れば、瞼の奥に今でも鮮明に思い出せます。
 撃たれた場所が悪かったばかりに下半身不随となり、車椅子生活を余儀なくされたチン・ガーロッ。
 けれども監督は、そこに「幸い脊髄の損傷は免れて、治療費は高額ながらも手術をすれば回復する可能性もある」という希望をそっと織り込んで、厚い友情に燃える男たちに地獄絵図を展開させましたね。


 それから、仲間に見捨てられたという絶望と、なによりも自分が死に追いやった人間たちに対する罪の意識で静かに心を壊れさせていったホアン・シャオミンが銃を乱射しながら発狂する場面が印象的だった『スナイパー』。
 もちろん『ブラッド・ウェポン 逆戦』も忘れられません。
 見るからに「ソイツ…裏切るぜ…!」と指差しで言わずにおれないような悪党面をしたアンディ・オンが案の定ばっちり裏切ったばかりに、ちいさなお目めにまばらに生やした無精ヒゲが、いかにも純朴な森のくまさんといった雰囲気を醸し出していたジェイ・チョウが重傷を負う羽目になっていましたね。このとき、ただジェイ・チョウの脳に銃弾をめりこませるのではなく、彼の目の前で、彼の愛する女の頭蓋を貫いたうえで、というあたりが「ああ、監督だな」って心から思いました。さらにその銃弾に脳を圧迫していずれ全身麻痺に陥らせるという時限爆弾的役割までさせるなんて、実に勢いよくダンテ玉が転がってんなって。
 そう、このときからです。私が、「おらよ」とばかりに監督がキャッチボール感覚で放り投げる、登場人物たちの身の上になんの前触れもなく降ってきて雪だるま式におおきくふくらんでいく不幸を「ダンテ玉」と呼ぶようになったのは。


 今回の『激戰』でも冒頭5分でダンテ玉、ふくらみきってましたね。
 放浪の旅から戻ってきたら父親の会社が倒産、大破産していた青年、酒缶片手に眠り込んでいる間に幼い息子を喪ってしまった母親、そしてタクシーに火炎瓶投げ込まれた挙句、借金取りに追われて全力疾走する男……オープニングの時点で激戦としか言い表しようの無い人生模様がしっかりと提示されていて、監督の絶好調をしかと確認した次第です。


 だけど『激戰』で監督が投げつけてきたボール、それだけじゃなかった。



程輝(ニック・チョン


 ニック・チョン。私が彼の名前を舌先の転がそうとすると、口は自然にロ・リ・イ・タ、という形になります。ロリィタ。1964年生まれ、今年で50歳になる彼は9ヶ月もかけて絞り、鍛え上げた肉体と朴訥とした坊主頭を得たことによって、その身に完全にロリィタの皮をまとうことになりました。
 幼い少女と戯れる姿はあどけなく、若くたくましい青年に時折みせるのは少女のような眼差し……それでいて年相応のくたびれた中年の顔をしっかり持っているだから魔性としか言いようがありません。
 そんな魔性の坊主の人生すごろくは、若くしてボクシング王者に輝きながらも若さゆえに八百長試合に乗ってしまい身を持ち崩し、借金取りに追われ香港から澳門に流れてきたところからはじまります。



林思齊(エディ・ポン)


 ロリィタという概念がおっさんになったものがニック・チョン演じる輝ならば、頭からつま先まで瑞々しさをまとったエディ・ポン演じる思齊は、わんこという概念がそのままひとの形になったような青年です。しばしば口が半開きになっているところなどは、いかにものびのびと愛情深く育てられた飼い犬といった調子でなごみます。
 現地の人々と触れ合いながら大陸をまわる、悠々自適な自転車の旅を終えた思齊を待っていたものは、父親の破産という現実でした。すべてを失ったショックから立ち直れず、酒とカジノに溺れていくばかりの父親を背負って歩く彼の目に飛び込んできたものは高額な賞金を手に入れることができるMMAトーナメント。思いがけぬ不運によって逆境に身を置くことになろうとも、なお真っ直ぐであろうと踏み出したその先で、彼は、丸めた背中にくすぶった魂を抱えた元王者と出会ったのです。



小丹(クリスタル・リー)


 澳門の地に逃れてきた輝にとってのかけがえのない出会いのひとつ、それが小丹と王明君の母子です。
 明君は夫に捨てられたショックから酒に溺れ、それゆえに幼い息子の身に起こった不幸な事故に気づけなかったことで自分を責め続けています。家中雨漏りのするあばらやに、板をかぶせられ閉ざされた浴槽。それは息子の死をなおも心に抱き、嘆きと罪の意識を澱のように積もらせ続ける明君の姿そのもののように思えました。
 そんな澱んだ世界でひとり母親を支え、守り続けているのが小丹です。トーナメントの裏で繰り広げられていた、少女の孤独な戦い。彼女の戦いは母とともに生きることそのものでした。聡明な少女は、母親が自分に依存をみせる一方で、自身の弱さと戦っていることを知っています。明君の戦いを見守り、支えるために、彼女の前で笑い、おどけてみせる小丹の姿は作中もっともしびれる場面のひとつです。


 『激戦』においては、喪失感を抱えた大人とそれを支える子供の姿がひどく印象的に残ります。
 子供たちは無知であることを許されていた、もしくは望まれていたがための無垢さをもって大人たちを癒すのではありません。思齊も小丹も親というもっとも身近な大人の喪失を目の当たりにし、その姿をずっと見続けていた子供です。親の心に刻まれた傷は知らぬ間に子供たちの内にも宿り、幼い心に痛みを植えつけます。それでもなお笑もうとする、やわらかな強さが大人たちの胸を打つのです。戦いとは拳をふるうことではなく、前を見据える、ただその行為そのものであるのだと、無垢さを失った笑顔は伝え続けます。
 輝が思齊に、小丹に告げた言葉は、かつて彼自身も師父から告げられたものです。自分を信じろ。恐れるな。恐れたら、負けだ。輝がいつの間にか忘れていた教えは、輝を通じて思齊のなかでよみがえり、ふたたび輝のなかで息を吹き返します。
 傷を負った中年がおっかなびっくり立ち上がるのに、暗闇のなかにある仄かな温もりを歌声に織り込んだサウンド・オブ・サイレンスほど相応しい曲はありません。輝は戦うことに対して、恐れを抱き続けてきました。過ちをおかしたかつての自分、そして欺瞞を抱える今の自分、すべてが彼にとっては恐怖の対象であったことでしょう。けれども輝の勇気は、彼が目を背け続けていた恐れのなかにこそあったのです。
 輝の特訓シーンでは、泣くほど燃えるサウンド・オブ・サイレンスを聴くことができます。
 『激戰』は失ったものは何度も取り戻せる、転んでも何度でも立ち上がれるんだという、再生の物語です。
 ダンテェ、らしくねェよ…あんた、どうしちまったんだ……。あんた、あんたもっととんがってはずだあ……。
 エンドロールとともに流れる彼らの辿りついた未来の光景ひとつひとつに、缶ビールを握り締めながら崩れおちました。
 不憫以外で震えるダンテ・ラム、あります。


 思わず手紙ということを忘れて、長々と語ってしまいました。どうぞ、お許しください。
 つい、遠まわしにものを言おうとしてしまうことは私の悪いくせなのです。


 端的に言うと、超やおい、でしたね。


 

やおい


 坊主がはじめて、わんこと唇重ねたとき、坊主、はじめてカレシの部屋にやって来たカノジョの顔、してた。
「ソ、『ソーリー』、じゃねえよお!?」
 錯覚か、はたまた私の妄想がとうとうモニタに念写されちゃったのかな、と思って巻き戻し、した。一時停止ボタンもこれでもかと、押した。何度も、何度も、繰り返した。
 錯覚でも、念写でも、なかった。あと私、べつに布団のなかでもなかった。起きてる。超起きてる。夢じゃない。
「こういうコト…好きなの?」
「……わりと」
 みたいな会話も坊主とわんこ、してた。わんこ、ちょっとフライングしたカレシの顔、してた。この師弟、トレーニングルームをもうカンペキにカレシの部屋にしてた。まわりにひと、超いた。
 そういえば監督も某誌のインタビューで言ってましたね。
「MMAを取材してたりすると、抱き合ったり、関節技や寝技を外したりしてる最中に、口と口が当たったりするのはよくあることなんだよね。」
 …って。
 この場面以降は、私のなかではもうずっと「マジでKISSする5秒前」ムービーだった。コイツらいつドッキリハプニング気取りのキッスをしだすか、わかったもんじゃねえ、とずっとハラハラしてました。もう完全にテレビ中継で息子の戦いを見守っているときの林パパの顔をしてましたね、私。ずっと。



この顔



激ラブ戰



さらに飲む


 そんなあっという間に蜜月に突入した坊主とわんこの間にアンディ・オンを投入せずにいられなかった監督のキモチ、すこしだけ、わかります。あいつら、放っておいたら、どこまでいっちゃうのか、知れたもんじゃない、カラ……。



李子天(アンディ・オン)


 小癪な若造の小生意気な表情をつくらせたらアジア一、アンディ・オンです。
 勝ち進む思齊の前に現れた挑戦者にしてラスボス。思齊にみせる挑発的な笑みと動き、そしてダイナミックな跳躍がとにかく魅せる。今回重火器を封印したダンテ・ラム監督が最後にぶっぱなしたRPG、それが彼です。
 実生活では動物大好きアンディ・オン。彼が獣のように歯をむき、腕を、足を、力強く振り上げるたびに「アンディ、お仕事頑張ってニャー」「頑張ってワーン」と彼の帰りを家で待つ、彼の愛する猫や犬たちの姿が背後霊のように透けて見えます。格闘してるアンディは格好良いニャー。ワンワーン、その通りだワーン…。
 勝気なパワーファイターである子天もきっと雨に濡れたカマキリに「お前も…独りか…」などと話しかけた挙句、そっと肩に乗せて連れ帰ったりしているのでしょう。


 そうしてアニマルソルジャー、アンディ・オンを迎えて最後のダンテ玉が弾けて飛んだ、その先にもさらに待ち受ける、やおい……。
 あ、それ…引っ張るン…だ……という衝撃。感謝。地上に恵みの雨は降り注ぎ、大地に黄金の稲穂は実った。ウィー・アー・ザ・ワールド。ウィー・アー・ザ……
 思い出しながら、取り乱してしまいました。


 そうそう、エディ・ポンのあほう面、最高でした。
 後半に進むにつれて、顔が引き締まっていく思齊ですが、前半はどこかぼんやりした坊ちゃんノリをひきずっているだけに隙のある表情が目立ちます。



 あっという間にトップブリーダーの貫禄を身につけた感のある輝に胸がときめく、いち場面ですが、このときの思齊のぽやんとした駄犬然とした顔はエディ・ポンのベスト顔仕事のひとつです。このあほう面のまま、戦いに尻込みする輝に対してさらりと「師父ならやれるよ」と言ってのけるのだからたまりません。
 そして坊主との初キッスを果たして、脳がとけて流れ出したかのような呆け面をさらして、彼の顔仕事はいっそう輝きを増していきます。
 エディ・ポンといえば瞳です。
 光にかざしたビー玉、海辺で拾ったガラス石、そういったものがたっぷりつまった幼子の宝箱のようなキラキラを、ふたつの目玉に宿したのが彼です。
 つぶらな瞳にほけっとゆるく開いた口がつくりだす、絶妙のあほう面。まさに愛すべき駄犬の面でした。
 師父の教えを素早く吸収し、学習能力の高さをみせつける一方で、師父の「待て!」だけは決して聞かない、わんこ…。
 今、私の目の前にもしも山脈が広々とそびえ立っていたとしたら、「わーんーこーぜーめー」と叫んでいたことでしょう。こだまもきっと応えてくれたはず。
 そして、そんな押せ押せなわんこにまんざらじゃなさ過ぎる、坊主……。
 ウィー・アー・ザ・ワールド。ビューティフル・ワールド……(※くりかえし)


 監督の投げたボール、思いもよらぬ方向から飛んできて、しっかりと私の頭にめり込みました。今もめり込んだままです。


 監督お得意の不憫アンド不憫、みっしりと詰まったずっしり重たい肉弾アクション、傷ついた人間たちが織り成す熱いドラマ、そしてやおい者たちの妄想がスクリーンに投影されたかのような真っ向スタイルの、やおい……。
 三段重ねの重箱の隅までおかずとごはんが隙間無く敷き詰められている張り切りすぎた弁当のような映画でした。


 ジョン・ウー監督『男たちの挽歌』、ジョニー・トー監督『暗戦』、ベニー・チャン監督『香港国際警察 NEW POLICE STORY』、ウィルソン・イップ監督『導火線』、ピーター・チャン監督『捜査官X』……ひとは誰しもやおいムービーをつくらずにはいられないのだと、歴史を振り返りながら思うばかりです。
 『激戰』も、きっと、やおい映画史に燦然と輝く一本になることでしょう。


 ノーやおい、ノーライフ。


 私もいつの間にか忘れていたもの、監督から受け取りました。ありがとうございます。
 どうぞ深い信頼で結ばれたニック・チョンと健やかな映画ライフをお送りください。


 かしこ

 あたらしい一年の朝は、祈りの朝だ。


 かなしみがすこしでも減って、よろこびがすこしでも多くおとずれますように。
 青い空からきらきらと宝石がこぼれるように降り注ぐ太陽のひかりにぼくは願った。


 いつもはカーテンまで閉めきった薄暗いばあちゃんの部屋も、このときばかりはひかりが差していた。開かれたふすまのさらにその向こう、縁側にまるまった背中がみえた。
「ばあちゃ……」
 ぼくは口を開きかけて、閉じた。ばあちゃんがもぞもぞとなにかを取り出すのがわかったからだ。ちいさく折りたたまれた紙幣。床にひろげて、ほそいゆびでしわをのばす。
 ぼくのおとしだまかな。これはもうすこし待ったほうがいいかもしれない。つい、ねだるような目を向けてしまうかもしれないからね。
 そっと、ぼくが引き返そうとしたそのとき、カチ、カチ、とちいさな音が鳴ったかと思うと、ばあちゃんの背中ごしに立ちのぼるけむりがみえた。
 思わずあわてて、ぼくが駆け寄ると、千円札は半分ほど赤と青の炎にのみこまれていた。
 ばあちゃんは落ち着いたようすでタバコをくわえると、そのままそいつで火をつけた。目を細めながらけむりを吐き出すばあちゃんの手から、もうほとんど黒く焼きこげた紙幣が音もなく落ちた。ばあちゃんは言った。
「ばあちゃんにはね、しぬまでにやっておきたい五つのことがあるのさ」
 香港に行く、カジノに行く、ポールダンスを見る……そのうち三つまでは叶えたという。
「あと二つのうちのひとつが、こいつだったのさ」
 ぼくに見せつけるように、ゆびではさんだタバコを軽く振る。またひとつ、望みを叶えたばあちゃんの顔はすっきりと清々しいもので満ちていた。
ブルース・リージャッキー・チェンチョウ・ユンファ……ひとはこのみっつのうちのどれかにはかぶれてしまうのかもしれないね。『男たちの挽歌』オープニングのドル紙幣をマッチ代わりに煙草を吸うチョウ・ユンファ……あれほどしびれる生き物はこの世界になかなかいないよ」
 ぼくちゃんはいったい誰にたどりつくのだろうね。ばあちゃんは楽しそうに言いながら、足元の紙片をつまみあげた。この世界になお存在をとどめようとするみたいに、わずかに燃え残った紙幣は新年をむかえた青空のした、ひどく物悲しげにぼくの目にはうつった。
「ぼくちゃんは、お金、好きかい」ばあちゃんは言った。「ばあちゃんは大好きさ」
 映画のこと以外は、ばあちゃんほとんど金のことしか考えてないくらいだよ。ばあちゃんの言葉を聞きながら、ぼくは千円札だったものをながめつづける。ぼくのお年玉になったかもしれなかった千円札。ばあちゃんのゆびにつままれたそれに手をのばすと、焼け焦げた部分がぽろぽろと崩れて、寒風に散った。
「今日は、この燃え残った札のような映画を観よう」
 物悲しさの正体は、きっと未練というのだろう。



盗聴犯 死のインサイダー取引

原題:竊聽風雲 2009年/香港映画


「ばあちゃんのオールタイムベストだよ」


 警察はある企業が株の不正取引に手を染めているのでは、という疑いを持った。
 企業の名は風華国際。二十四時間体制で盗聴監視調査に乗り出したのは情報課・特攻野郎Tチームだ。



「俺のような慎重ベテラン刑事でなければ、百戦錬磨のつわものどものリーダーは務まらん!」


ジョン


仲間からの信頼も厚い冷静さを失わないベテラン刑事。
【ここが地獄!】友人の妻を寝取った。
【さらに地獄!】バレた。



「自慢のルックスに女はみんなイチコロさ。ハッタリかまして、金の蛇口から500万ドルまで、何でもそろえてみせるぜ。」


マックス


資産家の令嬢を妻に娶った真面目な新婚逆玉刑事。
【ここが地獄!】妻の父に存在を軽く見られている。
【さらに地獄!】信用取引に500万つぎこんだ。


「盗聴の天才だ。上司相手でもふんぞりかえってみせらあ!でも、トラックだけは勘弁な!」


ヨン


有能だがやる気には欠けるやさぐれマイホームパパ刑事。
【ここが地獄!】妻と娘と病弱な息子を抱えており金の心配がたえない。
【さらに地獄!】余命一年の肝臓がんが発覚。


 そんな頼れる特攻野郎たちがインサイダー情報を手にしたときから、さらに特攻度は跳ね上がる。
 残された時間が長くないのなら、せめて家族にすこしでも多く財産を遺しておいてやりたい。そんなヨンの愛する家族を想う心から花開いた株トレード地獄変だ。
 監視記録からインサイダー取引に関わる部分の削除を求められたマックスの胸のうちに過ぎったものは、けっして長い付き合いの同僚に対する同情だけではないだろう。月給2万ドルのサラリーマン刑事であるマックスは義父にとっては娘の付属品に過ぎないのだ。その目にはマックスの人格は映らない。
 かくして記録から消えた、文字に起こすとたった数行分にも過ぎない会話が彼らの運命を大きく変えることになる。


 仲間たちの不正を知ってしまったジョンも、彼らの懇願をはねつけることもできずに不正取引に身を投じることになる。彼がいかなるときも冷静さを失わないのは、彼が状況に対して受身であるからなのだ。それゆえに彼は「正しいことも間違っているように思える」。目の前の状況に対処するための瞬間の選択は正しさを伴うわけではない。最善と正しさは別のものなのだから。


「ばあちゃんが大好きなシーンのひとつがここだね」


 人生の大博打に彼にとっての全財産20万ドルをつぎ込むヨン。しかしこれといった要因も見出せぬ株価の急激な上昇は委員会に不正取引の疑いありとみなされ、売買停止になってしまう。
 茫然自失となったヨンに追い討ちをかけるように、彼の残された時間を知るよしもない妻は彼の不実をなじり、子供たちをつれて家を出て行ってしまう。
「息子に何かあったらどうする気?」
 去り際の妻の言葉に、ひとり涙するヨン。
「じゃ、俺は? 俺に何かあったら? 誰が心配してくれる?」
 重ねられた問いに込められた絶望は、誰に届くこともなく、人気を失い、広さを増した空間にこだまする。


「このときの足元までさがったズボンと丸見えのいかにも安物といった感じの縞柄トランクスが醸し出す、哀愁と孤独感ったら。ばあちゃんはこのシーンだけ観るたび3回くらい巻き戻しちゃう」


 この映画のルイス・クーは本当に最高さ。ばあちゃんの口調に熱っぽいものがまざる。
 盗聴器を設置するために潜入した企業社内で見つけた立派なライターを迷いなくポケットにしのばせる姿から、同僚の腕にはめてある高級時計に注ぐいやらしい目つき、おのれの身なりなど構ってる余裕などはないといった垢抜けない衣服で全身を包んだモッサリ感、そして張り合いのない人生に対する疲労感をにじませた猫背、すべてがばあちゃんの心を打つという。


「もちろんダニエル・ウーだって見事なものさ。株取引再開後に彼がみせる有頂天スマイルは圧巻のひとことさ。上がり下がりを繰り返すハンセン指数をこれほど体現できる俳優を、ばあちゃん見たことがないよ。この映画のダニエル・ウーはもう歩くハンセン指数と言ってもいいよ」


 取引再開後の底値から反発をみせた株価は、さらに大きくふくれあがる。わき上がるトレーダーたち。絶望に打ちひしがれていた三人の顔にも喜色が広がる。
 だが、これこそがさらなる地獄のはじまりだったのだ。


「歩くハンセン指数だからね、株価がふたたび底値に転じると命運もほかの誰よりもあっさり尽きるのさ。ダニエル・ウーには計算高く生き延びることも、復讐者として這い上がってくることも似合わない。まさにこうなるしかなかったという姿を見せてくれたよ」

 ばあちゃんはテーブルのうえに置かれた紙片をふたたび摘み上げた。

「稼いだ金をすべて手放した人間だけが結局最後に生き残った」

 カチ、と小さく鳴ったその音ひとつでライターから噴きあがった小さな火が、残った部分を絡めとった。ぐずぐずと紙幣は黒く火に溶け、あっという間にちりとなった。それもばあちゃんがすりあわせた指のあいだで崩れて消えた。
 ばあちゃんは言った。
「お金、大好き」
 ぼくは言った。
「お金、大好き!」


 今晩はステーキだ!


〜お金は大切に使いましょう〜

ゆくとし、くるとし、呉彦祖
ハァイ、みんなグッイブニーン!


今年ももうすぐ終わりだねー。みんな年の瀬は実家に戻ったりするのかな?
それとも家から一歩も出ずにひとりでまったりかな?
浴びるほど酒を飲んで、浴びるほどDVDを観てってカンジ?
それもいいよねー。
三十路も家を出た翌日には実家から寝るための布団も場所もキレイさっぱり消えてたからいっしょだよぉ。
お酒、飲んじゃうよねー。キッツイの、いっちゃうよねー。


薄い壁越しに聞こえるテレビの音が途切れたら、仏になったと思って欲しい。


そんなアナタの即身成仏な夜に寄り添いたい。
今夜のパーソナリティは来年ヤクいトシと書いて厄年、DJ三十路がお送りしまっす。


(♪BGM:RAT&STAR『夢で逢えたら』)


一年の終わりもはじまりも、叶うなら好きなひとを眺めて過ごしたいよね。
三十路もいるよー、好きなひと。
ダニエル・ウー! 知ってる? 香港の俳優なんだよー。
今夜は年越し・年はじめにピッタリなカレの出演作を何本か紹介しちゃうね。


まずは大晦日にオススメの一本。


みんなは大晦日に観るならどんな映画がいい?
三十路は景気がいい映画がいいんだなー。どうせならパーッと盛り上がりたいじゃん?
三十路がねぇ、景気のよさを感じるのは爆破!
赤い炎が噴き上がって、ものが粉微塵に吹き飛ばされるのを見たとき、三十路はテンションが上がっちゃうなー。
もちろん、よいこはマネしちゃダメだぞー? わるいこはもっとダメだぞー?


というわけで『ジェネックス・コップ』でーす。ぱちぱちー。

この序盤での主人公トリオをうまいこと利用してやるぜっていうときのダニエルの笑顔がほんとサイコー。
調子こいてるときのダニエルは「これほど遺影に相応しい顔はない」ってくらいの天井感伝わるトップ・オブ・調子こきなスマイルを見せてくれるんだよね。
調子こいたのちにダニエルがどうなるかは…

もうこの仲村トオルの顔でわかるよね。


(♪BGM:仲村トオルYoung Blood』)


除夜の鐘代わりに銃声と爆音を聞きながら過ごしたあとは、いよいよお正月。
お正月といえば、なまぬるーいノリの特番。
画面に目を向けるでもなく、なんとなくただ音声を聞き流してるだけの状態でも「よかった、今ここに鈍器がなくて…」と偶然に感謝したくなっちゃうよね。
だけど、正月といえばあのノリって、どこかに染み付いちゃってるんだよね。

そんなぬるま湯気分なお正月にぴったりなB級ムービーといえば『アイアン・フィスト』。これだねー。

三十路、中学生な感性が滲み出てる映画ってキライになれないんだよねー。
もうこの映画に出てるひと全員、大きな中学生なの。
中学生じゃなきゃ、あんなシビレるコスプレ衣装着て「ボクの考えた超格好良い武器」みたいな代物構えて真顔でいられない。
三十路はラッセル・クロウの持ってるナイフが好きなんだよねー。
三十路もボールペンにあんなチェーンソーみたいなギミックつけたいよー。まあ飛ぶの三十路の指だけど。
ダニエルはもちろん最高。このヴィジュアルだけで三十路、なにも言えない。最高。
ダニエルはね、長い銀髪を振り乱して、チェーンを振り回しながらラッセルに襲い掛かってくるの。
ふたりの戦闘シーンの見所は「そろそろ出番かな?」みたいなカンジでがらがらと背後でまわってる巨大な歯車。
運命の歯車、ってカンジだったね。


(♪BGM:久保田利伸『LA・LA・LA LOVE SONG』)


一年の計は元旦にあり。いつまでもぬるま湯につかったままではいられないよね。
ここだけのハナシ、三十路、おカネにチョー振り回されてる。
みんなは振り回されてない?
新しい一年のはじまりだからこそ、お金に振り回されてるすべてのひとにおくりたいのがこの一本。


『盗聴犯 〜死のインサイダー取引〜』


ダニエル・ウー出演作の中でも三十路が特に大好きなこの一本。
不正な株取引企業を監視盗聴していたダニエル・ウー、ルイス・クー、ラウ・チンワン演じる刑事たちがインサイダー情報を掴んでしまうの。
このとき、彼らの心にふっ…と、刺しちゃうんだな、魔ってヤツが。

「インサイダー……やっちゃう…?」

「やっちゃう……?」

(※事後)

このインサイダー取引をきっかけに主人公三人が抱えた地獄の釜が開いていく様子は圧巻。
三十路、心から思っちゃった、「株、コワイ」って。
みんなも信用取引はほどほどにね。


三十路は「株で増やしてやる!」と父に言われて渡した貯金をすごく自然体に全額使い込まれました。
もちろん、一銭も返ってきてません。


(♪BGM:オフコース『言葉にできない』)


お正月といえば二時間ドラマ。


初詣も終えて、なんとなく持て余し気味の時間を無感動につぶすには最適だよねー。
「そんな二時間ドラマ気分で、だらだらとこたつでミカン食べながら楽しめる映画はないのー?」って声、聞こえてきそう。


あるぞー。もちろんあるぞー。


ダニエル・ウーっていう、調子こいて死ぬ男が香港でいちばん似合う役者の魅力をものすごくわかりやすい形で見せてくれる一本、『潜入黒社会
三十路の中で「こたつミカンで味わうダニエル・ウー」といったらコレ。


なんといっても、はじまってすぐ詰んでるダニエル・ウーが見れるんだから。
あらかじめ結末が提示されてると落ち着いて見れるよねー。
あと、生き埋めがこれほど似合う俳優って、なかなかいないカモ。



調子こいてるときの天井感もバッチリ。
いつ足元の床が抜けてもおかしくないくらいにキマッてる。



昼メロ気分で楽しめる一本をお求めなら、ダニエル・ウーが次から次へと男をとっかえひっかえした挙句、屋上から身投げする『美少年の恋』もオススメ、だよ。


(♪BGM:松任谷由実『春よ、来い』)


お正月最後を飾るのはこれっきゃないという、やっぱり三十路がだーいすき!なこの一本『新宿インシデント』


箱根マラソンを見守ることにも疲れた若干荒みがちなその心にこそ、海を越えてやってきたオッサンたちを待ち受ける運命の夜はきっと染み入るはず。


監督はイー・トンシン。
三十路が知ってる限り、ダニエルをもっとも美しく、悲惨に撮ってくれるひと。
そんなトンシン監督だからこそ、ダニエルが演じる純朴な青年が悪意と理不尽な暴力にさらされて、変貌を遂げていく様子を凄惨にも美しく描き出しているんだよね。

ダニエルお馴染みの有頂天スマイルも、カレの出演作至上もっとも悲しいものになっているの。


三十路、この映画を観てしばらくはスーパーで甘栗見かけるたびに「栗…栗ぃっ…!?」って、なっちゃってた。
もうほんと「栗…栗ぃっ…!?」なの。
画面に映るものすべてを死亡フラグに変える俳優ダニエル・ウーの真骨頂ってカンジ。

もうここまでくると何デビューって言えばいいのかもわからない。


というわけで、いつもは目覚まし時計の音すら筒抜けの薄い壁から伝わる住民の気配がすこしずつ消えていくこの季節、布団とひとつに溶け合って過ごす三十路と、アナタのための映画情報。どうだった?
三十路はとーっても楽しかった!
酒に呑まれて色に溺れても、寝煙草だけには気をつけて。


アナタの心に広がる宇宙空間にステキな音楽、届けたい。
パーソナリティはDJ三十路でしたー。
それではみなさん、グッナァイ。よいお年を。


(♪BGM:TRF『寒い夜だから』)